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日本国連環境計画群馬支部長 小暮 幸雄さん(高崎市新保町)

【略歴】群馬高専卒。生産・環境施設の企画設計に携わり、1993年に株式会社ソーエン設立。日本国連環境計画創立に参加、同計画諮問委員。2002年10月に群馬支部を立ち上げ支部長。

環境問題の改善



◎自分で考え行動しよう

 環境問題の改善を考えた場合、さまざまな手法が考えられる。それは私たちの身のまわりの問題から地球規模の問題まで、数えあげたらキリがない。そしてさまざまな「環境のため」、「環境にやさしい」などという活動が繰り広げられ、そのような商品が氾濫(はんらん)している。

 しかし、環境を私たちを取りまくすべての自然・社会環境としてとらえた場合、あまりにも私たちの意識の低いことに気付く。それは単なる自然保護や、目の前の事象だけにとらわれてしまい、本質を見ようとしない。身近なごみ問題を考えても行政指導により分別回収が叫ばれれば、そのことをするだけで満足し、後は誰かがやってくれると思っている。本質は私たちの生活のしかたそのものにあることに気付かず、それを変えようともしない。相変わらず飽食の暮らしを続け、デフレスパイラルの中で消費を繰り返している。

 企業は競争をしてわずかな機能を付加させただけの新製品を市場に投入し、消費をあおる。その裏には環境をキーワードに経済成長をしようという国や企業の策略が見え隠れしている気がしてならない。リサイクルという名の下に消費するエネルギー負荷、デフレを支える途上国での生産活動による環境負荷、環境商品という名の寿命の短い使い捨て商品等々、それら全体を考え環境負荷を減らすべきではないだろうか。

 日本人は本来、自然に対して繊細鋭敏な感性を持っていたはずである。それは絵画・陶芸・俳句・短歌などの世界を見れば明らかである。そして自然に逆らってというよりは、自然とともにという意識があり、自然に対する畏敬(いけい)の気持ちは強いように思える。しかし、自然はもともと成っているものであり、ひとりでにできあがっていたものという意識から、「環境を保全しなくてはいけない」というような強い気持ちは生まれてこないのかもしれない。自然は観賞するもので、美しい自然を模して箱庭はつくっても、環境そのものを率先して保全しようとする行動にはでない。そのことを論じる識者や研究者はいても、具体的な大きな動きとはならない。誰かがやるだろう、何とかなるだろうと考え、最後は国や行政に押しつけてしまう。

 古来より多くの日本人は、黙々と働く勤勉な労働者であり、統治者に年貢(税金)を納めるため卑近な生活に追われ、あとのことはお役人に任せていた民族であったため、自分で考え行動し責任を取る能力に欠けているように思える。現在のような環境問題が叫ばれても悪いのは国や企業で、自己責任という意識は薄く、ましてやその改善を自分からやろうという気力は小さいもののように思える。

 環境改善事業として循環型社会の構築をはじめ、新エネルギーや自然エネルギーの開発などさまざまな活動があるが、それらを国や行政のみの仕事として押しつけず、一部の大企業などに利権を独占させることなく推進しなくてはならない。私たち自身も学び、意識を高め、個人としてできることから始め、社会インフラ整備も民間による社会投資ファンドの活用により社会的収益性とともに私的収益性のともなう事業として推進できるシステムが必要ではないだろうか。

(上毛新聞 2003年2月19日掲載)