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全国・上州良寛会会員 大島 晃さん(太田市龍舞町)

【略歴】群馬大学学芸学部(当時)卒。1963年に太田市立北中の教員になり、97年に同市立太田小学校を最後に定年退職。98年に上州良寛会に入会し、2002年秋に「良寛への道」を自費出版した。

良寛随想(3)



◎菜や大根づくりの教育

 今回は良寛には直接かかわりはありませんが、良寛の師と交流のあった細井平洲(ほそい・へいしゅう)の教育観について述べてみたいと思います。

 良寛は良い師に巡り会えた幸せな人でした。良寛の少年時代の師は大森子陽(しよう)という儒学者でした。

 彼は北越四大儒の一人といわれた人で、越後西蒲原郡地蔵堂の生まれです。諱(いみな)は楽(がく)、字(あざな)は子陽、狭川(きょうせん)と号しました。

 明和二(一七六五)年ごろ、子陽は父と共に江戸に上り、瀧鶴台(たき・かくだい、山口藩儒)、細井平洲(名古屋藩儒、後に上杉鷹山に招へいされた人)等に学び、三十三歳の時に帰国しました。この時、細井平洲は子陽に送別の詩を贈っています。しかし、中央での雄飛を夢見ていた子陽にとっては、志を遂げ得ざる帰国でありました。

 平洲に学んだ子陽は、明和七(一七七○)年に帰郷後、地蔵堂に開いた三峰館(さんぽうかん)において、近隣の子弟に漢詩、漢文の教授を始めます。平洲の教育観は子陽にも伝えられ三峰館の指導に生かされたことと思います。良寛は地蔵堂にある親せき、中村家に寄宿して十二、三歳のころから五、六年間学びました。彼は論語の抄録を自ら作って座右に置いております。

 平洲の教育論が、先年、本紙の三山春秋に紹介されました。誠に優れたものなので少し長くなりますが引用してみます。「江戸中期の名儒、細井平洲は尾張、今の愛知県西部に生まれた。(略)十七歳のとき徳厚の師、中西淡淵(たんえん)にめぐり会い、のち師の招きによって江戸に出て、すすめられるまま学を講じた。尾張の藩校、明倫堂の督学、藩主の侍講(じこう)をつとめ、藩政をはじめ、広く民衆に感化を与えた儒者として、古今その例をみないといわれる。この平洲に教育論についての卓論がある。総(すべ)て人を育てるときの心持ちは、菊好きが菊をつくるようではいけない。百姓が菜や大根をつくるようにする。菊づくりは花、形を見事にするため、枝を落とし、つぼみをつみ伸びようとする勢いをとめ、自分の好みにあうようにしてしまう。

 ところが、菜や大根をつくるのは、一本一株を大切にするので、よいできのものも、へぼなものもある。大小不揃(ふぞろ)いだが、どれも大事に育て、見栄えのいいのも悪いのも、すべて食用の役に立つ。この二つの育て方の違いをよくわきまえることだ。人を育てるのも、(略)つまるところ、人間として立派に育てるのがよい。(略)今の教育は、菊づくりだろうか、菜や大根づくりだろうか。(略)」

 教育の不易の部分が平易に述べられていて感銘を受けます。

 良寛の全体像は谷川敏朗著『良寛の生涯と逸話』(恒文社刊)でほぼ知ることができます。

(上毛新聞 2003年3月3日掲載)