視点 オピニオン21
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あさひ小学校支援隊顧問 森尻 昆男さん(太田市東別所町)

【略歴】太田高卒。米国駐留軍で接客業に携わった後、1958年に群馬県警に入り、実家の都合で64年に退職。民間企業2社に勤務し、86年に退職。昨年4月からあさひ小学校支援隊顧問に就任。

過去の思い



◎心に留めて世代間交流

 「小学3年生で地獄見る」という見出しのオピニオン21(一月十六日付)を読んだという手紙や電話を、県内の知人から多数いただき、今さらながらマスコミの偉大さを痛感いたしました。

 「(前略)先日の上毛新聞を読ませていただき、同輩として感動をした次第です。昭和二十年八月十四日夜半、バラバラに落ちる焼い弾の中を逃げ回ったこと、B29が静かになった時、すぐ近くで赤ちゃんを抱いたままお母さんは亡くなっており、赤ちゃんは無事家は丸焼けで、ご主人が呆(ぼう)然と立っていたのが印象に残ります。私たちの学校も焼け、ほうあんでんだけが残ったわけです。バケツ・ほうき・シャベル等もって、全校の生徒で後かたづけでした。十月ぐらいまで教科書は開きませんでした。戦争を知らない人がどんな考えでいるのか、それはそれは心配です。すくなくとも今は平和だと思いますが、…(以下後略)」

 伊勢崎市のMさんからというつらい思い出のお手紙をはじめ、近隣のUさんの思い出話である「終戦の日の八月十五日朝、召集令状により村の長良神社において万歳の音頭で見送られ、死を覚悟で入隊をしたところ、天皇陛下の終戦勅語がラジオから奉読され、門前払いを喰(く)った」など、二十件以上の思い出が寄せられました。

 この八月十五日を境に世の中は一転いたしましたが、まず第一の印象としてその日の夜から、仮家住まいのはだか電球(多分四十ワットくらい)が、いやに明るくまぶしかったこととか、今まで気付かなかった八月十六日の真夏の空が、こんなに青く、せみしぐれが耳の奧まで飛び込んできたことなどが思い起こされます。

 一方ではないものずくしの貧困生活。「どうやって家族六人を養っていったらいいか?」。久里浜の海軍駐屯地から解放された父と、待ちのぞんでいた母、こども心にも苦悩の様子が手にとるように伝わってきました。二十二日間世話になった親せきの家をあとにすると、旧陸軍に接収されていた父の貸家(現在地)が、空くのを待ってやっと安住の地に腰をおろすことができました。何とか地元の小学校に復帰もできましたが、喜んでみたものの教科書がない。やむなく友達の教科書を借りて一生懸命書き写した記憶が脳裏をかすめました。

 両親の実家が農業を営んでいた関係で、ある程度の食料は援助していただくことができ、今でも感謝しておりますが、実景として当時、昼食時間になると席を立って、どこかに消えてしまう生徒もおりました。それでもくじけなかった仲間意識と、担任の先生が工面してくださった食物を、わけあってすごしたことや、やがて学校給食もはじまり、自給自足のサツマの茎や、芋類・野菜などのみそ汁、さらにはララ物資と称する粉末を溶いた牛乳が飲めるようになりました。

 私たちの過去の思いは、ひとつの出来事として心の隅に保ちながら、祖父母の立場から、また父母の立場から、支援隊として今後、どうやっていったらベストか、世代間交流を通じてとくと検討していく時期ではないかと、思っております。

(上毛新聞 2003年3月12日掲載)