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日本原子力産業会議常務理事 町 末男さん(高崎市中豊岡町)

【略歴】京都大大学院工学研究科修士課程修了。工学博士。元原研高崎研究所長。1991年から9年間、日本人として2人目の国際原子力機関(IAEA)事務次長。特許多数。紫綬褒章受章。

日本の教育を考える



◎求められる個性の育成

 ウィーン在住が長かった筆者の友人の子息は中学生の時に両親とともに日本に帰国したが、一年足らずでひとりウィーンに帰ってきて、元の国際学校に戻ってしまった。日本の学校では授業は先生の一方的な話で終わり、生徒が意見を言うことは少ない。生徒がおとなしくて、生き生きとしたところがなく退屈だというのである。日本は一クラスの生徒数も四十人以上と多く、一人ひとりの個性を育てる教育は難しく、一方的な先生の講義になってしまいがちだ。質問もしにくい。大学受験のための厳しすぎる勉強も個性の育成を難しくしている。

 米国のように大学の門を広く開き、若者は大学で自分の最も興味のある分野の学問に打ち込み、学んだものを社会で生かす情熱を持って卒業していくようにしたい。日本では、高校生は受験準備のために、知識を詰め込むのに忙しく、深く物事を考察する時間がない。時には学ぶ意欲さえ失ってしまう。家庭での食事時間ですらテレビが鳴りっぱなしで、ゆっくりと考え、親と語り合うことを妨げている。

 筆者が長く勤めた国際原子力機関(IAEA)では、会議での議論で物事が決まっていく、いわゆる日本流の根回しというのは少ない。従って、会議で意見を明確に述べることが重要で、発言しなければ存在しないことと同じであって、その人の評価は低下する。何でも言えば良いというわけではないが、独創的で有益な見解を述べることが重要だ。日本には会議では発言を少なく静かにしている、“物言えば、唇寒し…”という考えもあった。日本での人の評価が「減点法」になりがちなのも、個性的で役に立つ人を生かしにくい一因である。失敗を恐れず、新しいことを試みることができる土壌が必要だ。何でも「横並び」、「目立たないこと」、「寄らば大樹の陰」という安易な考え方はやめるべきだ。これでは新しい発想はつぶされてしまう。「個性」をつぶすことは安易だが、育てることは難しい。両親は子どもたちの自由な発想を勇気づける。学校は一方向の与える教育でなく、生徒が「自分で考え発言する」ように仕向け、機会をつくる。それがクラスを生き生きさせ、個性を育てるであろう。

 経済の活性化が求められている今こそ、個性的で魅力ある企画、ベンチャー事業が必要である。デザインの世界では「美」をつくる個性がユーザーの心をとらえる。消費者のニーズをきめ細かく分析し、どうしたらそれに応えられるか、柔軟で個性的な発想による製品の開発とユーザーとのコミュニケーションが重要だ。

 二百四十年前に生きた天才モーツァルトは、当時宮廷音楽長として権力をふるっていた、サリエリに圧迫されながらも、新しい個性ある音楽を創造した。いま、サリエリの音楽は忘れ去られたが、モーツァルトの曲は万人の心に響きつづけている。

(上毛新聞 2003年3月13日掲載)