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富岡市保育部会長・郷土史研究家 大塚 政義さん(富岡市中沢)

【略歴】法政大学卒。県教育史編さん委員、文化財調査委員などを歴任。水戸天狗党と下仁田戦争、国定忠治、天野八郎などの歴史研究、執筆に取り組み、1984年度上毛出版文化賞を受賞した。

伝説



◎人々の歴史へのロマン

 伝説とは、根も葉もない言い伝えも多いが、なかにはそれを裏付ける根拠となるものも多くみられる。「ひょっとしたら、この伝説は本当にあったのかもしれない」と思えるようなものも意外と多い。つまり、真実味があるのである。こんな興味の持てる伝説をいくつか紹介してみる。

 国定忠治とかかわりのある女性のうちの一人「おとく」には、こんな伝説が残されている。

 国定忠治は嘉永三(一八五〇)年十二月二十一日の午前十一時ごろ、大戸の関所近くの薮川原において刑死した。首は三日間、処刑場跡にさらされていた。

 一説によると、さらされている首と腕が何者かによって持ち去られたという。持ち去ったのは、忠治の愛人のおとくであるとも伝えられている。

 おとくは首と腕をもらい受けてきたとも、奪い取ってきたとも伝えられている。首は佐波・東村にある忠治の菩提(ぼだい)寺養寿寺に葬り、腕は「情深墳」として伊勢崎の善応寺に葬ったと伝えられている。腕は、最初他の墓地に葬ってあったものをおとくが善応寺に移したとも伝えられている。台石の正面には「情深墳」という三文字が刻まれてあるのが読み取れる。この情深墳という文字からはおとくの忠治に寄せる思いが伝わってくるようである。

 首は養寿寺の僧貞然に預けたというのである。この貞然が後の養寿寺の法印に当てた「書置申一札之事」という文書がある。内容は、私は忠治の首を預かったから、後の住職に回向を頼むという書き置きである。この書き置きは、同寺の「国定忠治遺品館」に展示されている。さらに驚くことには、同寺の裏手にある貞然の墓石には貞然の辞世の歌が刻まれている。今でもはっきりと読み取れる。「あつかりし ものを返して 死出の旅」とある。あつかりしものとは忠治の首であろうか。この首が大正元年に庫裏より発見されて、当時たいへんに話題になったという。

 また、忠治に遺児がいたという伝説が栃木県の出流山周辺にある。忠治の遺児の国次が弟子入りして修行したと伝えられている長谷寺や還俗(げんぞく)した寺と伝えられている常楽寺にも国次伝説が伝わっている。さらに出流山の名刹(めいさつ)満願寺には、慶応三年に幕府打倒を宣言し、挙兵した志士の中に、大谷刑部と名前を変えた国次伝説が伝えられている。寺の小冊子にも栃木県郷土史にも、国次伝説が記されている。国次は捕らえられ、十九歳で刑死した。

 子分の板割りの浅太郎伝説も藤沢の遊行寺にある。この寺が大火に見舞われた時に、昔の顔を利かせて浄財を集めて復興に協力し、その精進改心が認められて貞松院の住職になったという。遊行寺には墓もあり、浅太郎の説明も。寺の周辺には、浅太郎伝説が伝えられている。近所の子どもたちがやってくると、こんぺいとうを衣の下から出して与えたので、「こんぺいとう和尚さん」と子どもたちから呼ばれて親しまれたという。勘太郎(太郎吉)を殺(あや)めてしまった供養だろうか。近所に「もらい風呂」に行くと体中刀傷だらけだったとか、今に伝えられている。浅太郎使用の長ドスもあるという。

 このように伝説も、それなりの裏付けがあると「ひょっとして本当かな?」と思えるところがまた面白い。伝説も長い間人々の間に語り伝えられてきたものである。伝説には、人々の歴史へのロマンを感じる。こうした裏面史もまた歴史である。

(上毛新聞 2003年3月17日掲載)