視点 オピニオン21
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陶芸教室・赤城カルチャースクール清山主宰
清水 英雅さん
(富士見村赤城山)

【略歴】勢多農林学校卒。教員を務めた後、学校教材販売業へ転身。独学で陶芸を学び、1990年、現住所地に教室を開校。現在、前橋市内の公民館や老人福祉施設、専門学校でも教えているほか、市民展審査員などを務めている。

登り窯



◎焚ける境遇に感謝

 現在、陶芸の世界では、登り窯で作品を焼けるということは大変恵まれている環境にある、といわれている。なぜならば、燃料となる薪(まき)の調達、火に対する規制の厳しさなど、クリアしなければならない問題がたくさんあるからだ。

 今日は、その登り窯の窯入れの日である。この日のために日ごろから作っておいた門下生の作品が誇らしげに並び、時を待っている。焼き上がりを想像しながら、口には出さないが、胸いっぱいに期待をいだき、手際よく作業を進める。全作品を詰め終わり、焚(た)き口以外は粘土で封印する。お神酒をあげて窯だきが始まる。まずは徐々に窯を温めていき、窯自体が薪の発するエネルギーを受け入れる態勢ができてくる。さあ準備OK。温度をぐんぐん上げていく。期待と興奮で身震いするほど、胸が高なる時である。

 炎はゴーゴーとうなり声を上げ、透き通った赤色からオレンジ、白色と色を重ね、うねり合いながら燃えたっている。小さな空気口からは、火柱がまさに垂直に噴き出している。熱風は用心しないと髪やまゆ毛を一瞬にして焦がしてしまうほど熱く勢いを増してきている。こうなってくると、薪をくべる人と炎が一体化し、心は全く無になってしまう。窯入れの時、あれやこれやと焼け具合を皮算用していたことなどすっかり忘れ去り、ただただ無心に窯と対峙(たいじ)しながら薪を焚き続ける。時には、気分よく温度上昇できないのを窯が怒っているのか、黒煙を噴き上げる。おかげで顔はおろか、鼻の穴まで真っ黒だ。色気など考えていられない。なだめすかし、活力ある炎へと導いていく。やがて、炎は窯の中の作品をすっぽり包み込み、「すべて私に任せなさい」と言っているかのようだ。一週間焚き続け、さらに一週間ねかせ、ゆっくりゆっくりと仕上げの時を待つ。

 いよいよ窯出しの日、胸はどきどきだ。粘土で固めた出し入れ口をノミで崩し、口を開ける。期待に満ちた目の中に、焼き上がった作品が飛び込んでくる。炎の洗礼を受け、渋く金色に輝く地肌、次第にたまっていく熾(おき)にくるまれていたのであろうか、淡い淡い紫色を帯びた色調。舞い上がった灰がさらに炎を浴びてできたであろう深い緑色のビードロ模様。これでもかと火柱を噴き上げ、窯の中で嵐のように燃え盛っていた炎とはあまりにも違い、焼き上がった作品の何と穏やかで、たおやかな姿であろう。興奮は高まるばかりだ。

 私は窯焚きのたびに思う。一連の工程は、人の来し方によく似ていると。紆余(うよ)曲折、波乱万丈、よいではないか。そんな大げさでなくとも日常のささいな出来事、炎の猛(たけ)り立つ力がやがてすべてを包み込み、穏やかな作品を作り出すようにあおられてこそ、得られる平穏な日々だと。幸か不幸か、齢(よわい)八十に手の届く私はいまだいろんな問題にぶち当たり燃えたぎっている。しかし、私にもやがて穏やかな日々が訪れるであろう。そんなことを期待させ、気持ちを奮い立たせてくれる登り窯に、そしていまだ登り窯を焚けるという境遇に声高らかに感謝、感謝である。

(上毛新聞 2003年3月26日掲載)