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ベルツ記念館長 沖津 弘良さん(草津町草津)

【略歴】沼田高卒。群馬銀行に20年間勤めた後、草津に戻り、草津温泉旅館協同組合専務理事、草津温泉観光協会専務理事などを歴任。2000年にオープンしたベルツ記念館の初代館長となる。

ローテンブルク



◎ゆかりある追憶の古都

 ドイツ・ロマンチック街道と古城街道の交差する街、「中世の宝石」と呼ばれるローテンブルクは、特に思い入れが深い。一九六二年、ベルツ博士の生誕の地、ビーティヒハイムと草津町の姉妹都市締結がなされ、交流が行われる中、草津温泉観光協会長として幾度となくドイツやオーストリアの温泉地を視察していた中沢晁三さんと、当時、ローテンブルク市長だったオスカー・シューバルトさんの出会いが日本ロマンチック街道を立ち上げるきっかけになった。

 シューバルト市長は当時、ドイツ・ロマンチック街道協会長を兼ねていた。今では城門を出ると、都市化した街づくりが行われ、工場や公共施設が立ち並んでいるが、古くから交通の要所として栄えた街だった。

 第二次世界大戦の終戦二日前、旧市街は爆撃によって市街地の四割が破壊され、九つの塔にかかる城壁も甚大な被害を被った。シューバルト市長は、若いころから建築学に政治にと、卓越した指導力を発揮した。市民に元の十六世紀の街並みに戻すべく説き、市民も「昔からの伝統を守ること」を選択した。

 現在の赤い切り妻屋根が連なり、石畳みの小道を「中世の宝石」と呼ばせるまでに復興させた大変な情熱家だが、物静かな中に闘志を秘めた学者肌の紳士だった、この二人の出会いと友情が後に、日・独ロマンチック街道を結び付けることになった。

 また、草津町にとって関係の深い街でもある。日本画の巨匠、東山魁夷画伯が訪独した時の紀行文を「馬車よ、ゆっくり走れ」にまとめられ、その中に「追憶の古都」としてローテンブルクが紹介されている。

 その文の中に「歩みいる者にやすらぎを 去り行く人にしあわせを」と画伯が訳された文章があった。街を取り囲む城門の一つ、シュピタール門に刻まれたラテン語の言葉だが、これを目にした草津の町民はさっそく画伯の自宅を訪ね、応諾をいただき、草津町の町民憲章となった。一九七九(昭和五十四)年のことだった。

 その二年後、初めて来日したシューバルト市長を草津にお迎えし、夕食を共にする機会があった。その席で、市長は親しみを込めて「今度、ローテンブルクに来る時は、これを持ってきなさい」と、一枚の巻き紙を手渡してくれた。それは、十四世紀ころのゲレート・ブリーフ(通行証)の写しで、当時の字体で書かれたものだった。

 その内容は「ローテンブルク・オブ・デァ・タウバーの自由市民に告げます。ロマンチック街道を通る人々は、どこから来た人であっても、すべての人々の街道の安全を守ることを保障し、われわれは通行人とその財産とともにあることを約束する」というもの。十四世紀という古い時代から現代に至るまで、変わることない観光地の原点を「何が大切なのか」を市長は示してくれたのでした。

(上毛新聞 2003年3月27日掲載)