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桐生ふろしきの会会員 大槻 圓次さん(桐生市東)

【略歴】神戸高商卒。5年間の商社勤務の後、帰郷して家業の買い継ぎ商に携わって以来、4年前に佐啓産業を退社するまで、一貫して織物関連の現場で働いてきた。わたらせプロバスクラブ会員。

きもの



◎今こそ見つめ直したい

 「きもの」をもっと着ましょう。なぜなら、それはきものがわれわれ日本人の体型に似合っていて、とても美しいと思っているからだ。

 きものは和服とも呉服とも言われる。呉服とは文字通り、呉の国の服装を語源とする。国はすたって二千五百年を経た今でも、この国の名前と織り方が連綿と続いているすごさは、技術の高さだけでなく、名前は経由された土地には残らずに、この日本でのみ愛され育(はぐく)まれてきたことからもうかがえる。

 奈良時代には小袖(こそで)として下着であったものが、鎌倉・室町時代には表着のきものとして貴族に着られたから、今のきものの原点は一二〇〇年ごろと言える。その後、国産も多くなり、一五〇〇年ごろの西陣織はもはや有名。少し遅れて、桐生仁田山紬(つむぎ)も公家の注文書が残っている(一五四八年)ことなどからも、絹織物は麻同様、風土に密着して育まれたのが分かる。

 帯地は錦地が主だが、獅子狩文錦(ししかりもんにしき)=国宝・法隆寺夢殿で発見された幅二メートルの反物。六〇七年、小野妹子舶載=や正倉院御物、あるいは名物裂などを参考に国産化が進んだ。

 重ね着をしていた衣服を時代とともに脱ぎすてていく傾向は、洋の東西を問はない。大ざっぱに言えば、和の十二単衣(ひとえ)はうちかけ姿になり、脱いで小袖姿をきものと言い、帯も丸帯から名古屋帯へ、夏にはゆかた(もと、ふろ上り姿)となる。海の向うでは、二百年前はモーニングとシルクハットで通勤していたのだが、背広姿となり、米国で始まったラウンジスーツ、替え上衣、果ては丸首シャツやランニングシャツ(もと下着)とジーパンが世界中に広まった。女性はドレスが短かくなるだけでなく、ブラウスも表着になり、丸首シャツどころかタンクトップ、ビキニも盛んで、東西ともに次はヌーディストかもしれぬ。

 それはさておき、簡単便利だけを追いかけるのは、やはり行き過ぎ。不易と流行、変らざる美しさにあこがれ、古きよきものに回帰するのが自然体だと思う。

 八百年も日本人の心の中に住み続け、愛されて時代と共に徐々に順応してきたきものは、終戦で一変し、その後の五十年間まるで焦点を失なったままである。日本の伝統文化そのものの縮図のように。

 今こそ、きものを見つめ直したい。心にゆとりをとり戻したい。懐古趣味で言うのではない。きものは見ても見られても美しい。立ち居ふるまい、そのものも美しい。俗に言う着物の約束はなくてよい。生地も色柄も絹、綿、合繊と自分の好み次第。帯も細帯で充分。選んで楽しみ、作って楽しみ、着て変身して非日常性を楽しみ、小物のおしゃれも楽しみ、畳んで楽しみ、たまには風を入れて余韻を楽しむ。上手に着付けるコツはただひとつ、何度も実地に着ることだけ。

 男性も女性も、もっともっと着る機会があるはずだ。ぜひ着たいと思いさえすれば! そして、日本人の心のふるさとへ還(かえ)ろう。

(上毛新聞 2003年4月6日掲載)