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山田かまち水彩デッサン美術館館長 広瀬 毅郎さん(高崎市片岡町)

【略歴】学習院大卒。東京銀座で画廊修業の後、高崎に広瀬画廊を開く。1992年に山田かまち水彩デッサン美術館、98年、滋賀県に建築家、安藤忠雄さん設計の織田廣喜ミュージアムを開館する。

中沢清没後50年



◎自分をみつめた絵と詩

 ぼくらは ぼうぼうの夜の
 原野に
 あかりをともす者だ
 そのまばゆい燈火の中に
 ぼくらは生きている

 この詩は中沢清の「宇宙への通信」の中の一節で、龍蔵寺の彼の墓の横に置かれた御影石に刻まれている。

 また、過去碑には
長女 洋子 昭和十年三月三十一日 三歳
長男 清 昭和二十九年六月四日 二十二歳
夫 重雄 昭和四十八年二月九日 七十三歳
妻 みか 昭和六十年九月十四日 七十七歳

 この四行で中沢家は終わっている。

 中沢清は昭和七年に前橋市に生まれ、若い時から絵と詩に特異な才能を発揮した。群馬大学に入学してからは絵と詩に哲学が加わり、「生きることは考えること、よく考えることは、よく生きること」と深く自分をみつめて、純粋で透明感のある絵と詩を発表し続けた。

 昭和二十九年、統合失調症の疑いのため入院した群大附属病院で心臓まひのため二十二歳で生涯を終わっている。その突然の死から五十年を迎えようとしている。彼の死後、母親のみかさんはセーター編みの内職をしながら、息子の作品を残そうと三冊の本を出版した。

 昭和三十一年には群馬大学時代の同級生四人が編集委員になって、中沢清遺作集『みしらぬ友』(新樹社)を出版。詩七十三編、詩論四編、絵画五点が収められている。群馬大学哲学研究会の山田桂三教授は別冊の『清君の憶い出』の中で「黒ぶち眼鏡の底にあって天の一角をみつめる眼はきよらかであった。梶井基次郎の『檸檬』という短篇の主人公を思わせた」と回想している。

 昭和五十四年には二十七回忌を迎えて二冊の本を出版している。三月には美術関係の友達三人が編集者となって『中沢清 素描集』(あさを社)を出版した。障子紙やチリ紙などにセピアコンテで描かれた少女、裸婦、天使、母子像など淡く美しいデッサンが七十点収められている。桐生工業学校の美術部時代からの絵の友人、宮地佑治氏は『素描集』の巻末で「顔の素描にはナイーブで清らかな詩的美があり、トルソの群には非常に隠微で内面的、かつ冥想的な愛の夢がある」と解説している。

 十一月には中沢清創作童話『雑木山のモノス』(北関東造形専門学校出版部)を群馬県下の全小学校に寄贈する目的で出版した。みかさんは出版の意図を贈呈趣意書に、次のように書いている。

 「群馬県下小学校長殿 この童話は二十五年前に文学と絵画を志向し、わずか二十二歳の若さで永眠してしまった私の一人息子が書き残したものです。小学生の皆さんに愛読してもらうことを願っております。私も一人老人ホームにおりますが、今になっても母親として子を想う気持でいっぱいです。どうかよろしくお願い申し上げます。
 昭和五十四年十二月
 寄贈者 中沢みか」

(上毛新聞 2003年4月22日掲載)