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東京医科大学病院集中治療室長 小澤 拓郎さん(東京都港区高輪)

【略歴】前橋高、東京医科大学卒。同大学院修士課程修了。同大学付属霞ヶ浦病院、同大学八王子医療センター麻酔科助手を経て、2001年4月から現職。

ゆとり



◎多忙の中の自分の時間

 以前にも紹介させていただいたように、僕は麻酔科医として集中治療室に勤務しています。ここには毎日のように重症の患者さんが入室してきます。大学病院ですから一応勤務時間は定められていますが、実際には勤務時間通りに仕事が終了することはまれです。もちろん夜間や休日は交代で当直するようにしており、自宅で過ごせる時間もあるのですが、ついつい終電を逃して泊り込んでしまったり、休日でも病院に足が向かってしまう日々が続いています。

 ここ数年、臨床実習にやってくる学生や研修医たちと雑談していると、彼らの将来に対する希望が“○○医学を専攻したい”から“自分の時間の持てる診療科に進みたい”へ変貌(ぼう)してきていることに気付きました。すなわち夜遅くまで働いたり、休日も満足に取れないような診療科目は敬遠されてきているようです。これは全国的な傾向のようで、現実に小児科医や麻酔科医の不足が社会問題となってきておりますが、まだいくつかの診療科が追従するのではないかと危惧(ぐ)しています。

 昨年より“ゆとり教育”という制度が始まっております。僕の小学四年生の娘はこの与えられた“ゆとり”をどのように活用しているかと観察してみますと、単に一日増えた日曜日として過ごしているようです。小学校に“ゆとり教育”の意義を理解させることは困難で、かといって親が一緒に行動計画を立てて“有意義に過ごすこと”を教えるのも現実的には難しいと思われます。例えば、その週に学んだことを、ゆっくりと自分のペースで検証し、さらなる勉強をしてもらうことが理想なのでしょうが、そもそも小学校に“自主自学”を求めることがナンセンスなのではないかと思っております。もっとも子供と一緒に過ごせる時間の持てない親の詭弁(きべん)だ、と言われれば返す言葉もありませんけど。

 最近、“自分の時間がほしい”と主張する研修生や“ゆとり教育”を享受する子供たちをみていますと、一つの基本的な疑問が生じてきます。それは“自分の時間”や“ゆとりの時間”は人に求めたり、あるいは人から与えられるものなのでしょうか。むしろ、義務に縛られた多忙の中につくり出すわずかな“自分の時間”こそが“ゆとり”であり、何物にも替えられない貴重な時間であると思っています。また夜遅くまで、あるいは休日をつぶして働いてもそれはすべて“影”の部分であり、マスメディアに出てくるような医学の“華”には程遠い現実です。しかしどんな社会においても“影”があるからこそ“華”がより輝くことを知っています。

 娘に申し訳ないなぁ、と思いながら晴れた休日に病院へ向かう途中、いつもは地下鉄に揺られる道のりを、春のにおいを感じながら誰よりもゆっくりと歩いている時に心の“ゆとり”を感じてしまう悪い父親です。

(上毛新聞 2003年5月26日掲載)