視点 オピニオン21
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元中学校教員 高橋 義夫さん(松井田町行田)

【略歴】国士館短大卒。1957年に松井田町立臼井中学校教員となり、以来35年間同町周辺の中学校で生徒指導に取り組む。91年に指導の記録をまとめた著書「中三の君らと」を出版した。

茗荷の味



◎人生の妙味分かったか

 今、茗荷(みょうが)の新芽がうまい。真夏に最盛期となる茗荷はこの新芽が成長した後に出る茗荷の花である。

 その茗荷もうまいが、茗荷の親木となる新芽の味は淡白な苦味とさわやかな香りが実にいい(茗荷の新芽は地中五センチほどの深さから出て、地上に五センチほど伸びたのがいい)。

 その新芽の真っ白な根元を小口切りにして、ほんの少し醤油(しょうゆ)をかけたのは酒の肴(さかな)に最高である。

 私が茗荷や茗荷の新芽の味を覚えたのは三十代半ばのころである。

 初めは茗荷を食べて「うまいなあ、茗荷は」と思ったその時、彷彿(ほうふつ)と思い浮かんだのが、茗荷を縦に四つ切りにして醤油をかけ、それを肴にコップ酒を飲んでいる父親の姿だった。

 その後すぐに思い出したのは、うどんの汁の中の茗荷が食べられず、母親に叱(しか)られた日のことだった。

 そして、今日また茗荷の新芽を食べて、ゆくりなくも、初めて茗荷の味に出合った日のことが、しみじみと懐かしく思い出されたのである。

 ところで、食べ物は人により、年齢により、さまざまに好みの違いがある。そして、年とともに食べ物に対する好みや味わいも変わるものである。

 焼いた秋刀魚(さんま)の腸(はらわた)がうまかった時代もあった。そして、茗荷のうまさを初体験した日もあった。また、酔いざめの水を夢中で飲んだ夜もあり、酔いざめの水をうまいと思って飲めるような時代もあった。

 でも、これは人間の食生活の自然のなりゆきであって、今更ことあらためて思いみるほどのことではないのかもしれない。

 翻って考えてみると、食に対しての好みが変わるのは、人間の知性や良心の成長ではなく、肉の体が感じる食欲や味覚の変化である。

 人間以外の生き物でも、その生き物独特の食に対する好みの変化はあるかもしれない。

 確かに食に対する好みの変わりは、人間の肉体的成長と関係があると思われるが、精神的な成長とはあまり関係がないように思われる。

 茗荷の味は分かっても、人情の機微を感じとる人間的な感覚は備わっただろうか。また、食に対する好みが変わるように、人間を観(み)る目も変わったろうか。良心に恥じない生き方をしているだろうか。

 このように自問してみると、自分の心の卑小さにただただ恥じいるばかりである。

 茗荷の味が分からなかった子どもの時と同様に、大人になっても、人生の真の妙味を理解できずに今日まで生きてしまったか―なんて思ってしまうのである。

 でも、かすかにではあるが、人間として生かされて生きていることの楽しさが、ほの見えるような気もするのである。

(上毛新聞 2003年6月3日掲載)