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前群馬町立図書館長 大澤 晃さん(群馬町中里)

【略歴】高商から国学院大学。桐高、前工、前女とめぐり、前南で定年。群馬町立図書館の初代館長として、七星霜、その運営にたずさわる。現在は町の文学講座(古典と現代文)の講師。

読書



◎自由であるべきもの

 フランスの作家、サンテグジュペリに『星の王子さま』という作品がある。

 その中で、王子は「大人たちは、とても数字が好きなんだから…。でも、皆さんは、そんな余計なことで、暇潰(つぶ)ししてはいけませんよ」と警告している。また、親しくなったキツネが、王子との別れに、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは、目に見えないんだよ」という言葉を残して去っていくところも出てくる。

 作者は第二次世界大戦の末期、米軍の基地を飛び立ち、偵察飛行中、コルシカ島の沖合に姿を消してしまった。

 それから六十年の年月が流れたのに、われわれは、彼の言葉に耳を傾けることもなく、ひたすら数字を追いかけ、論争に明け暮れして、心の問題を軽視してきてしまった。

 「国を愛する」と主張すれば、右寄りと取られ、反論すれば、左と思われ、両者の間で沈黙しているうちに、大切な倫理観や村落共同体の意識を、どこかに置き忘れてきてしまったようだ。

 その解決をはかるためには、思考能力を高め、さらに社会性までも養えると思われる読書が最適と考え、「本離れ」という表現も生まれ、読書への一連の運動が始まったのではないか、と見るのは深読みに過ぎることになるのだろうか。

 「読み聞かせ」から「朝の十分間読書」へと続き、課題図書や「良書」の推薦から感想文のコンクールに至るまで、実に熱心である。

 これらの動きは、戦後の図書館が目的としてきた、市民の精神的向上への後方支援には、追い風とはなっているが、一抹の不安が胸をよぎる。

 状況の検証を怠り、時流に流されていくことの恐ろしさは、太平洋戦争で経験ずみである。

 本を手にしていると、「病人か、不良のすることだ」と決め付けられ、危険思想の持ち主だと思われたり、読むことも禁じられたりした。取り上げた本の代わりに、銃剣を握らせ、戦場に送り込み、やがては送葬曲「海ゆかば」の運命が待っている青少年たちには、読書は不要どころか、有害だったと思う。

 それらの日々から、時は流れて半世紀。今度は逆に、読書推進の大合唱が聞こえてきたので、「美しい笛の音が聞こえてきたからといって、すぐに踊り出すんじぁないよ」という言葉が脳裏をかすめる。

 読書という行為は読まないという拒否までを含めて、本質的には自由であるべきもので、見聞や経験の助けを借りながら、思考や心のフィルターを通して、自分にとって一番大切なものを探しにいく旅であるとも考えられる。

 また、読書を通して、われわれは著者との対話を試み、生きていくための根を探り、それが結果として、地下茎となり、多くの人々と繋(つな)がり、精神文化を築き上げていく礎となるのではないかとも思っている。

 故に、読書に求める社会的な期待と個人が読書に求めていくものとの間にはギャップが生まれる。それを埋めるために、短絡的に「正しさ」を押し付け、読書の限りない可能性とすばらしい世界をこわさないでほしいと、心から願わずにはいられない。

(上毛新聞 2003年6月27日掲載)