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山田かまち水彩デッサン美術館館長 広瀬 毅郎さん(高崎市片岡町)

【略歴】学習院大卒。東京銀座で画廊修業の後、高崎に広瀬画廊を開く。1992年に山田かまち水彩デッサン美術館、98年、滋賀県に建築家、安藤忠雄さん設計の織田廣喜ミュージアムを開館する。

黒岩信之という画家



◎塗り重ねを極める

 七、八年前だったか、画廊の仕事をしている時、嬬恋村の人で東京芸術大学を出た後、ドイツへ留学し、若くして死んだ絵描きがいる、という話を聞いた。名前も住所も分からないまま、嬬恋村へ出掛けたのだが、彼の家はすぐに分かった。

 彼、黒岩信之は一九五二年に嬬恋村に生まれ、七七年に東京芸大を卒業した。七九年、ミュンヘン芸術アカデミーに入学し、八二年の三年生の秋に胃がんのため、三十歳で亡くなった。一年後の八三年九月、同級生が中心となり、芸大学生会館と銀座の村松画廊で、同時期に黒岩の初個展が遺作展となって開催。併せて、黒岩信之作品集と追悼文集が編集された。

 ミュンヘン時代の作品は、大きなキャンバスに同じ色のアクリル絵の具を、同じ量だけ特殊な溶油でといて五十回から百回も塗り重ねている。塗り数によって、表面のさざ波のような文様は浅くなったり深くなったりして、画面全体に微妙な動きとシルエットをつくっている。

 最初の一年は、ほとんど黒い作品が作られ、過渡的に灰色、白、線などの小品が続いた。亡くなる一年前くらいからフェルメール・ブルーを思わせる鮮やかな青色のシリーズが完成する。

 芸大野球部で一緒になり、現在は人気画家となっている福岡通男は、追悼文集の中でこう書いている。「守備はサードだった。彼の前にはってくるゴロを、すくい上げるように捕り、必ず横から投げた。クロちゃんは、憧(あこが)れの長嶋をあの小柄な体のどこかにしのばせながらプレーしていたに違いない。彼の怒ったところを見たことがない。酒の席でも、しばしば場所を同じにした。笑いころげる愉快な酒だった」

 また、黒岩と一夏、ヨーロッパ美術館めぐりの貧乏旅行をした同級生の木島彰も、こう記している。「あたかも彼はそのことを知っていたかのように、三年間はすべてのものを凝縮し、キャンバスの織り目と絵の具に彼自身を託して塗り込めている。塗り重ねることが、まさに彼の生きた日々の証しのように。重く、寂(しず)かに、時を止めて、黒い色の中から彼の声が聞こえてくる」

 彼の芸大時代の指導主任、大沼映夫教授は次のような追悼文を寄せている。「ドイツ留学中に彼が試みた色彩に対する独特の追求は、当時の日本ではまだ行われていなかった行為である。キャンバス全面に幾重にも執拗(しつよう)に塗り重ねる行為と、その行為を肉体で感じながら繰り返す仕事は、異国での一種隔離された極限的精神状態を体験して、生まれ得るものであったろう。殊(こと)に、最後の作品数点に関しては、それを『極めた』と言っていいと思う。極める行為が『死』を近づけてしまったと言っては、言い過ぎだろうか」

(上毛新聞 2003年7月9日掲載)