視点 オピニオン21
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安中音訳ボランティアグループ「かけはし」会長
山賀 英子さん
(安中市原市)

【略歴】安中高、早大卒。45年間市内英語塾で講師を務めたほか、私立・県立高校講師、豪・タスマニア州小学校日本語講師などを歴任。1999年に同グループの設立に参加、会長に就任。

亡き母に助けられて



◎父の介護に努める

 太閤の母は、口中に太陽が飛び込んだ夢を見て身籠(ごも)ったそうな。だから、幼名は日吉丸。古い古い絵本で得た知識である。

 さて、私はわが母の死を嘆き悲しんだことはない。病名と余命いくばくもないことを知らされた時、何日か滝のような涙を流してしまったので、百三十日間の介護の日々も、葬りの儀式にも元気に振る舞ったのである。

 葬儀の後、親類縁者や隣人たちにお礼を述べたのは長女の私。ちょっと気障(きざ)だったが、以下のことを宣言してしまった。

 「私は今日、涙など流しません。母は死とともに私の心の中に飛び込んでくれたからです。母の思いは皆、私の胸の内に残してくれました。母と一緒に生きていきます…」

 人とおしゃべりをする時、間を置く。人と会うとき、服装に心を配る。母だったら、どうするだろう。常に頭をよぎるのだ。

 母の他界後、数年して父が入院した。その早朝、母が夢枕に立った。夢で会ったのも初めてであった。声を発しない母であったが、「父を頼む」ということだと理解した。

 父は無事退院したが、便秘が続いていた。入院中の室内で、排便に相当気を使っていたのだろう。腹部も赤くただれ、床擦(ず)れ寸前だった。

 自宅に戻ると、排泄(はいせつ)は自力で積極的にした。日に何度となく病床から手洗い所を往復した。そのためか、赤いただれは自然に消えた。だが、排便の苦しさは続いた。

 静かに病床に臥(ふ)す父も腹部の痛みには耐えられず、薬に頼り、痛みをこらえた。腹部や背を摩(さす)り、手をつくしたが、痛みを和らげることは不可能だった。

 突然、深夜の排便を二、三度繰り返した。寒中の夜半である。その度にシャワーを浴び、衣服を交換した。深い眠りに就いたのは、白々と夜が明けはじめるころだった。翌日の空は青かった。奇しくも母の誕生日の二月十六日だった。

 便秘の苦しみは十日ごとに父を襲った。本人しか分からぬ痛みを見つめるのも苦しかった。最後に父の病気が完治したのは春の彼岸の中日、母の命日であった。

 非力な私にはできないことが、常に母の因縁のある日に解決できた。母の助力であろうと真剣に考えざるを得なかった。

 両親は仲の良い夫婦だった。平凡な家庭人ながら、家族全員笑いが絶えないと羨(うらや)ましがられた。父と母の諍(いさか)いを耳にした子供はいなかった。

 母の介護も、父は一生懸命だった。病名を知らぬ父は、桜の咲くころには快癒すると信じていた。母は先に逝くことを悟って、父の行く末を案じていた。

 母のために、父の介護に努めようと思っている。母が旅立って丸十年、父も来秋は白寿。毎年、雪が消えると、母のなじんだ温泉宿から勧誘状が来る。田植え後と山紅葉のころ、父を伴って集る。そこには父を慰めてくれる母の面影がある。

(上毛新聞 2003年9月8日掲載)