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東京医科大学病院集中治療室長 小澤 拓郎さん(東京都港区高輪)

【略歴】前橋高、東京医科大学卒。同大学院修士課程修了。同大学付属霞ヶ浦病院、同大学八王子医療センター麻酔科助手を経て、2001年4月から現職。

人の死はいつ?



◎家族が受け入れた時

 日本人の信仰は84%が神道、76%が仏教、1・4%がキリスト教でその他が8・7%ということですが、かなりの人々が仏教と神道の二つを重複しているそうです。確かに初詣でには近くの神社にお参りし、厄払いにはお寺に出かけた自分は一般的な日本人ということになります。

 僕は職業上、多数の人々の臨終に立ち会い、そして一人の生の終わりを宣告します。その時、心の中でその人生をねぎらい、空の上から故人のご家族を見守ってくださることを願い、安らかに眠られることを祈ります。決まり事ではないのですが、冷静に見つめ直すと仏教やら儒教やら神道やらキリスト教やら節操もなく祈っている自分に苦笑してしまいます。日本人は仏教、神道、儒教のみならず多くの宗教が混在した中で生きてきたので複雑なのかもしれません。

 平成十一年二月、高知県の病院で臓器移植法施行後、国内初の脳死者からの臓器摘出が施行されました。テレビニュースを見ていて、いよいよ日本の医学にも新たな夜明けが来たぞ、奇しくも日本の夜明けを夢見た幕末の志士・坂本竜馬の生まれた高知で、と妙に興奮したことを覚えています。

 わが国では臓器移植にしか治療手段を見いだせなくなった患者さんは高額な資金を調達し外国に行くしかありませんでした。そこで生体部分肝移植という、近親者間で健常者の肝臓の一部を患者さんに移植する、海外ではあまり施行されない、本邦ならではの移植術が広がっていました。

 当時、僕の勤務していた病院でも施行されており、肝臓提供者の全身麻酔を担当していました。しかし、健常の若い人の体にメスを入れ臓器を摘出する行為に麻酔医として加担すること、これに何とも複雑な思いを感じることがありました。それ故に脳死臓器移植の再開に大いに期待したのかもしれません。

 現在、僕は集中治療室という場所で生への闘いに挑んでいる多くの患者さんに囲まれているわけですが、高度集中治療のかいもなく、不幸にも脳死状態に陥る方もおられます。つらい気持ちでご家族に事実を伝えることも僕の仕事の一つですが、心臓が動き、そして手足に温(ぬく)もりのある姿を見ていて“死”と受け止められるご家族はほとんどおられないように感じます。

 医師も科学者の端くれであれば、脳の活動停止が人の死であり、魂もなく生まれ変わることもない、と認識すべきかもしれません。しかし、現場で一心不乱に手足をさすりながら語りかけるご家族の姿を見ていると、自分にはとても脳死=人の死と思うことができなくなります。どうやら一般的日本人の宗教観をもった自分には大役過ぎるようです。

 人は死後どこへ行くのか? これは人類の永遠の命題なのかもしれません。その答えを示唆してくれるのが宗教と理解しているつもりです。そして、人の死はいつなのか? これを決めるのも同様です。強いて言うなら取り囲むご家族全員がその事実を受け入れた時、と思っています。

(上毛新聞 2003年9月13日掲載)