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郷土史研究家 大塚 政義さん(富岡市中沢)

【略歴】法政大学卒。県教育史編さん委員、文化財調査委員などを歴任。水戸天狗党と下仁田戦争、国定忠治、天野八郎などの歴史研究、執筆に取り組み、1984年度上毛出版文化賞を受賞した。

少年武士の辞世



◎伝わってくる気迫

 なきがらは程なく土に変わるとも 魂は残りてみ国を守る

 元治元(一八六四年)に京を目指した水戸天狗党と、迎え撃った高崎藩士とが下仁田において戦った時に戦死した水戸天狗党の少年武士、野村丑之助(十三歳)の辞世である。

 昨今、青少年の生き方が何かと取りざたされているが、幕末の激動期を生きた少年武士の生きざまを記してみる。

 筑波山に天狗党が挙兵した時、父は丑之助を連れていこうとした。母は「まだ年輪もいかぬ我(わ)が子を、そのような修羅場に連れていかないでほしい」と懇願した。父は「楠木正行も十一歳で父正成と桜井の駅で別れている。丑之助は十三歳で立派な大人である。国事に一心を捧げてくれ」と言って、筑波に連れていった。父は那珂湊の戦いで戦死してしまった。

 丑之助は田丸稲之衛門の小姓として従軍し、同志とともに京を目指した。

 下仁田で高崎藩との戦いが始まる前に、稲之衛門は丑之助に「今日の戦いには参加しなくてもよい。本陣で待っているように」と告げた。丑之助は本陣から同志が戦いに出ていくのを見ていたが、遂にたまりかねて、三尺の愛刀秋水を引っ提げて戦場に向かった。

 そこで、高崎藩先陣の三勇士の一人で、小野派一刀流の達人、内藤儀八に出会った。全身朱に染まって、血刀を振り回して阿修羅の如く戦っている儀八に、果敢にも立ち向かっていった。丑之助は右腕を切り落とされてしまった。相手を少年とみた儀八は、止(とど)めを刺すこともなく硝煙の中に消えていった。

 やがて戦いも終わり、本陣に連れてこられた丑之助は、深手のために同志と京に行くことができないので、自害することになった。

 右腕がないので、左手で脇差しを抜いて腹に当てた。いざ介錯(かいしゃく)という時に「しばらく待ってほしい」と言った。「この場に及んで命でも惜しくなったのか」「いいえ、そうじゃない、さんばら髪のために首まで垂れ下がっている。これでは首が打てないから、髪を束ねるまで待ってほしい」と言って、不自由な左手で髪を上に束ねた。

 同志が矢立てを取って「野村丑之助 行年十二歳」と書いて示すと、静かに首を振った。一を足して十三歳にして示すと、にっこり笑ったという。深手のために痛かったが「痛い、痛い」と一言も言わないで、「熱い、熱い」と言ったという。

 亡骸(なきがら)の襟元からは、辞世の歌が出てきた。「自分の亡骸は、まもなく土に変わってしまうが、わが魂は残って国を守る」というものであった。

 このころの志士は、よく辞世の歌を詠んでいる。この基になっているのは、吉田松陰の辞世である「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも とどめおかまし大和魂」。我が身はどこどこに散ろうとも、魂は残って国を守る―という内容のものが多い。

 さすがに新選組の土方歳三は「―魂は東の君やまもらん」と結んでいる。東の君とは徳川慶喜である。

 幕末の志士の辞世の歌から、自分の信じる道を突き進んだ若者たちの気迫が伝わってくる。人生に夢があるのではなく、夢が人生をつくるのである。

(上毛新聞 2003年9月29日掲載)