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前群馬町立図書館長 大澤 晃さん(群馬町中里)

【略歴】高商から国学院大学。桐高、前工、前女とめぐり、前南で定年。群馬町立図書館の初代館長として、七星霜、その運営にたずさわる。現在は町の文学講座(古典と現代文)の講師。

読書



◎情報受け止める羅針盤

 昔物語の桃太郎がなぜ、鬼退治に出掛けたのか、気になっていたので、絵本や童話を読んでみた。

 鬼が子どもを誘拐したり、農作物を荒らし、旅人に危害を加えたりと、原因はさまざまであるが、桃太郎の行動を正当化するために後から付け加えられたような気もする。

 お供のイヌ(愛情)、サル(知恵)、キジ(勇気)の順序が一般的に行動を起こす時の順番と合致しているので驚いたが、きび団子をめぐっての桃太郎と彼等のやり取りも面白い。

 「一つ下さい」と頼んでいるのに「一つはやれん、半分や」とことわっている本もある。この疑問は桃太郎が鬼に捕らわれている子どもたちに会うまで続く。

 桃太郎についてのいろいろな言い伝えが、このような物語にまとめられ、流布したのが室町時代と聞いている。その経緯や影響については専門家の論証を待たねばならないが、自然発生的な民話と思われるものが、教訓的なものに組み替えられてゆく情況が少し気になる。

 ともあれ、この物語は情報(鳥や村人たちが、鬼ケ島のことを桃太郎に伝えたこと)と偶然(道で出会った動物たちの協力)の勝利を語っている。

 考えてみると、われわれの日常も経験を大切にしながらも、この二者に支えられているような気がする。しかし、結果の正当性を主張する時に正義が顔を出す。鬼にも三分の理があると思われるが、桃太郎の正義はそれを無視する。

 辻邦生は『西行花伝』の中で「この世には人々がいるだけ、それだけ公正な生き方があるのです。すべての人は自分は正しく生きていると思っています。それをどう塩梅し、より広い人たちが安堵を得るかが大事です」と書いているが、耳傾けるに価する言葉ではなかろうか。

 室町時代から六百年の時は流れ、太平洋戦争下、桃太郎は航空隊の指揮官として操縦桿(かん)を握らされていたらしい。総力戦の名の下に、手段までも絶対化してゆく権力のあり方と、それを信じこまされてゆく子どもの姿をここにも見てしまうのは考え過ぎであろうか。

 それから六十年、二十一世紀がやって来た。

 桃太郎の姿はテレビのコマーシャル以外に見ることはないが、資源や食糧、それに温暖化の問題までも視野に入れると、グローバル(地球規模の)な発想が要求されるし、その解決への共同作業は国際的な協力が必要となってくる。

 また国際交流が進み、国民国家(一民族一国家)から、多民族国家へと変わり、国家の解体までも論議されようとしている現実は、必然的に思想や宗教も異なる人々との共存の道を探ってゆかねばならない。

 それらを考える時、情報をしっかりと受け止める羅針盤としての読書の必要性を痛感する。今までただと思われてきた飲み水や安全に対価を支払う時代であるが、それ以上に情報に代償を支払う努力は必要と思う。それを怠ると第三者の意のままになるという危険も出てくる。

 現実と戦う姿勢までも、読書の守備範囲であると思っている。

(上毛新聞 2003年10月15日掲載)