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全国・上州良寛会会員 大島 晃さん(太田市龍舞町)

【略歴】群馬大学学芸学部(当時)卒。1963年に太田市立北中の教員になり、97年に同市立太田小学校を最後に定年退職。98年に上州良寛会に入会し、2002年秋に「良寛への道」を自費出版した。

良寛と大而宗龍



◎生き方を定めた邂逅

 人は後になって、ある人との出会いが、以後の生き方に大きな影響を受けていたことに気づくことがあります。良寛と大而宗龍(だいに・そうりゅう)との出会いもまさに良寛にとっては一期一会ともいうべき大事でした。

 良寛は円通寺での修行中に師の国仙より『正法眼藏』の講義を受け「翻身(ほんしん)の機」を迎えます。翻身の機とは今までの生き方を大きく変えるきっかけとでもいうべき出来事をいいます。

 良寛はこの後よく行脚に出ますが、この時に宗龍のことを聞きます。そして、越後紫雲寺村の観音院に既に隠居した四十二歳年上の宗龍を訪ね、苦労した後に会っています。

 宗龍は享保元(一七一六)年、富岡市下丹生の生まれで、同所の永隣寺、第九世紹山賢隆(しょうざん・けんりゅう)のもとに弟子入りします。その後、美濃の妙応寺や越後の宗賢寺で修行しています。この時に本師となる悦厳素忻(えつがん・そきん)のもとに参じています。素忻の住持した加賀三名刹(めいさつ)の一つである天徳院で和尚の資格を得ています。この時、宗龍はすでに四十二歳でした。

 宗龍の師、悦厳素忻は厳しい修行で有名な明峰派、大乗寺の流れをくむ人でした。この大乗寺の流れというのは開祖道元の「仏祖伝来の正法」の廃れたのを憂い、永平寺二世の徹通義介(てっつう・ぎかい)や太祖といわれる大乗寺第三世で総持寺の開山、瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん)の説いた正法禅、貧の家風に立ち戻るべく『正法眼藏』を遵奉(じゅんぽう)し、厳しい修行を実践することを提唱した一派でした。

 この流れを江戸時代になって中興させたのは大乗寺第二十六世、月船宗胡(げっしゅう・そうこ)でした。宗胡は「正法禅」と「貧の家風」の再興を図り、祭り上げられ埃(ほこり)をかぶっていた『正法眼藏』の学習を唱えました。宗胡の弟子で大乗寺二十八世が、円通寺開山でもある徳翁良高(とくおう・りょうこう)です。国仙も宗龍の師である悦厳素忻も徳翁良高の孫弟子にあたります。良寛も宗龍もこの法系の修行者でした。

 宝暦十(一七六〇)年、越後蓮潟の有力者が禅宗伽藍(がらん)の修行道場観音院を紫雲寺村に建立し悦厳を迎え入れます。悦厳は自らの師である黙子素淵(もくす・そえん)を開山に据えて自らは二世の住職になります。そして第三世に宗龍を据えます。宗龍も後に飛弾高山に大隆寺を建立しますが、師の悦厳を開山にし自らは第二世になっています。師弟ともに「貧の家風」に生きて名利に恬淡(てんたん)な清々(すがすが)しい人たちでした。宗龍は活動的な人で生涯に六十四回にわたる授戒会(じゅかいえ)を各地で開き、また諸処で石経供養を催して後進の育成を図っています。

 良寛は行脚修行中に宗龍のこのような行動を耳にしたのでしょう。名利を離れ、石経供養や授戒会に全勢力を注ぎ、自らの生涯をかけた大先輩の中に今後あるべき自らの生き方を観(み)る思いがしてどうしても会って話を聞いてみたいと強く願ったようです。

 良寛が宗龍と相見を果たしたのは宗龍が七十歳をこえて紫雲寺村に隠居した後のことでした。隠居後のことでなかなか人に会わぬ宗龍に良寛は勇を鼓して、夜分隠居所の塀を乗り越え、自分の気持ちを認(したた)めた文を手水(ちょうず)鉢の上に残します。翌朝、それを読んだ宗龍が良寛の真心を見抜いてすぐに会ってくれます。またその折にいつでも直接会いに来なさいと言ってくれます。

 宗龍は会いに来た良寛の中に自らと等しく、いやそれ以上、純粋に、直向(ひたむ)きに「正法禅」並びに「貧の家風」を実践しようとする淳真(じゅんしん)な心を見いだしました。良寛は宗龍に会い強い影響を受けます。まさに●啄同時(そったくどうじ)といおうか運命的な邂逅(かいこう)でした。

 良寛はよほどこの時のことがうれしかったのでしょう。四十年も後に貞心尼に語って聞かせています。貞心尼もそれをまた三十数年後に、最初の良寛詩集を刊行する前橋龍海院第二十九世藏雲和尚に書き送っているのです。
 ※文中の●は口へんに卒

(上毛新聞 2003年10月25日掲載)