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県保護司会連合会長 若槻 繁隆さん(伊勢崎市茂呂)

【略歴】大正大学文学部卒。1952年から、保護司、高校教諭として活躍。88年、太田高校長で定年退職。退魔寺住職として前橋刑務所教誨(かい)師を務め、受刑者への説話を続けている。

重い命



◎きちんと躾をしよう

 神戸での中学生による殺傷事件が引き金になったのか、以後、中高生による殺人・傷害事件が頻発するようになった気がする。そして、それを契機に少年法の改正が行われたのであるが、たちまちにして今度は、いたいけな幼児を高所から突き落として死なせた十二歳の少年が出現してしまった。たとえ学校の成績がよくて、とても考えられないといっても、実行したことは事実であり、それで本人を救う言葉にはならない。まして中学生ともなれば、ものの是非善悪の判断は大人以上に潔癖さをもっていることが多いと思われるし、それが少年としての誇りにもつながるはずである。

 また、先日の女子高校生殺害身代金要求事件の裁判で「国が死刑を言い渡すことは大変なことである」と被害者の両親に涙ぐみながら弁解したと思われる新聞報道があったが、では殺された被害者の命は問題にならないほど軽いのか。考えようによると、殺されてしまった者は、たとえ犯人を死刑にしても「生き返らない」のだから、いま現実に生きている犯人の命を大切にして(?)生きて反省悔悟させ、菩提(ぼだい)を弔らわせることが次善の策としたのだろうか。しかし、考えてみると「殺された本人の無念さ」「被害者の家族」「友人・知己」等、幾多の善良な人々の「悲痛さ・悔しさ」は少しも顧みられていないと思われても致し方ないのではないだろうか。古人が「人の命は地球より重い」と言った。掌中の玉のように大切に育てられている子が、あるとき突然、他人の不法な行為によって「命」を奪われてしまったらと思うと、慄然(りつぜん)としてくる。最近、被害者の立場を重くみることが叫ばれ、少しずつ、その方向が出てきたのかと思っていたら、それほど昔と変わっていないような気がする。

 今、「青少年の健全育成」が叫ばれ、「暴力追放」の運動が強力に押し進められている。しかし、それとは裏腹に青少年による犯罪や、暴力事件、殺人事件が頻発している現状を直視しなければならないのではないか。その根源を尋ねると、それは「家庭教育」と「学校教育」に帰するように思えるのである。獅子はわが子を千仭(せんじん)の谷に落として厳しく育てるという。われわれの周囲にいる動物たちも、子を育てるために親としての躾(しつけ)をしているような姿を見ることがままある。その躾をきちんとされていない者が、幼いわが子の命も奪うような気がするのである。

 「己の隣人を愛せよ」と説いた人がいる。はたして現代はどうか。国家間でも、人間同士でも。何となく自分以外は皆「敵」であるような様相を呈しつつある、と見るのは穿(うが)ち過ぎだろうか。他国の人でも自国の人でも拉致する、誘拐する、身代金を要求する、他人の家に押し入り命を奪い、金銭を強奪する等々、道徳地に落ち、まさに末世の世と嘆いてばかりいても社会は決して良くならない。地球の上が楽園となるためにはどうすべきか、その答えはすべての人がその心の中では知っているのである。

(上毛新聞 2003年10月26日掲載)