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東京経済大学教授 田村 紀雄さん(東京都八王子市)

【略歴】前橋市生まれ。太田高卒。東京大学新聞研究所、カリフォルニア大、中国対外経済大等で研究教育に従事。お茶の水女子大、埼玉大等で講義。東京経済大で学部長、理事歴任。日本情報ディレクトリ学会会長。

梁啓超生誕130年



◎日本で新政治思想説く

 どの町にも中国からの留学生や研修目的の労働者をよく見かけるようになった。大声で中国語を しゃべ喋る人だけでなく、 りゅう流暢ちょうな日本語で大学や街に溶けこんでいる人もいる。

 明治以来、日本に学び、または亡命生活をし、帰国してから中国の指導者になった人は多い。郭沫若(のち副首相)、廖承志(中日友好協会会長)、古くは孫文(国民党を創立)等、枚挙にいとまない。

 国内が政治的に混乱したり、海外に新しい知識を求めて国を離れる人はいつの時代にもある。のち帰国して政治指導者になり、学問所を興す。群馬県でも新島襄(同志社創立)、中島半三郎(自由民権家)らを識しる。いずれも一時期、米国に身を寄せ、のちそれぞれ本領を発揮した。

 この十月中旬、中国・天津市で梁啓超生誕百三十年を記念して、かれの評価をめぐる国際会議が開かれた。主催は周恩来(晩年首相)を輩出した南開大学。

 梁啓超は清朝末、改革派政治家とされた康有為に従ったが、政変でともに国外に逃れた。梁は、日本で『清議報』『新民叢報』などを創刊、新しい政治思想を説いた。読者は日本で学ぶ留学生、本国の青年たちだった。

 海外に在って、その祖国に新しい政治思想の新聞・雑誌を送りつける方法は、中島半三郎らも同様だった。

 清朝が倒れ、孫文らの中華民国が成立するや、梁は十数年の滞日を終えて帰国、司法ついで財政の閣僚として重きをなす。ただし政治家故に毀き誉よ褒ほう貶へんもあり、また長い日本滞在から「親日派」と目され、中国共産党治下の中国では軽視されてきたようだ。

 晩年には、多数の著述をなし、学者として終えた。これらの著作が天津古籍出版社から復刻され、梁の故居が保存され、南開大学にかれの資料も存在することなどから、同地での国際会議になった。

 梁の子息の一人、梁思礼とも話す機会があった。かれも含め子供たちに学者、研究者が多く、学者梁啓超を感じさせられた。

 研究発表会の会場の一つであった地元の大手日刊紙『今晩報』社ビルが、偶然にも旧日本租界のはずれにあるなど、日本との細い糸を感じたのも私が日本人だったからか。さっそく新聞社に近い、かつての日本軍の本拠のあった海光寺付近を歩いてみた。

 海光寺の面影はなく、付近に人民解放軍陸軍病院の巨大な建物群をみたのは不思議な思いであった。

 梁啓超は、政治家、ジャーナリスト、思想家のいずれというべきか難しい。中国が日本外交へのカードとして使ってきた「歴史問題」の流れの中でどう位置づけてゆくのかもわからない。

 だが、いま日本にいる何万人もの留学生が将来帰国して周恩来や梁啓超のような仕事をするかもしれない。私の大学院生、学部生のゼミの中の留学生との接触が楽しくなる。

(上毛新聞 2003年11月13日掲載)