視点 オピニオン21
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写真家 大橋 俊夫さん(埼玉県川口市)

【略歴】高崎市生まれ。高崎高、日大芸術学部写真学科卒。講談社入社後、『FRIDAY』副編集長などを経て退職。日本雑誌写真記者会賞など受賞。昨年、写真集『尾瀬―空・水・光』を出版。

IOC会長の功罪



◎古代五輪の軌跡歩む

 近代五輪の創始者といわれるピエール・ド・クーベルタン(フランス)は二十歳の時、初めて英国に渡り、ラグビー校やイートン校を訪問し、英国の青少年が行っているスポーツに共感、教育にスポーツを取り入れる意思を固めた。やがて、IOC(国際オリンピック委員会)を組織し、次のような五輪の目的を唱えた。

 (1)スポーツは基礎である肉体的・道徳的資質の発達を推進(2)スポーツを通じ、相互の理解と増進と友好の精神にのっとり若人を教育し、より良い平和な世界を建設する(3)全世界に五輪の原則を広め、国際親善を創(つく)りだす(4)世界の競技者を四年に一度、五輪に参加させる。

 もっとも有名なのが五輪の標語「より高く、より強く、より速く」。彼が掲げた究極の五輪の理念である。IOC会長在任は二十九年間。初期の五輪のころは女性を参加させず、セレモニー等に起用した。

 五代目会長のアベリー・ブランデージ(米国)は二十年在任したが、「ミスター・アマチュア」と呼ばれるほど、アマチュアリズムの信奉者だった。一九七二年の札幌五輪で、彼は「五輪というものはIOCが各国のアマチュア選手を招待して開催するので、IOCはアマチュアでない選手を招待するわけにはいかない。シュランツは走る広告塔でアマチュアでない。それゆえにIOCは彼を札幌大会に招待しない」と、オーストリアの有名なアルペンスキーヤー、カール・シュランツの参加を認めなかった。

 シュランツは自国のスキーメーカーと提携し「シユランツはクナイスルで勝つ!」というキャッチフレーズのポスターやコマーシャル等に出ていた。その当時の会長の決断は、今のスポーツ界の状況では夢みたいな話だった。

 サマランチ会長時代になると、テレビマネーなど商業主義に毒された。会長に就任して一年後、五輪の独立性を強調しながらも商業主義を導入する。IOCにリベートを出す会社には片っ端から五輪マークの使用を認め、VISA、コカコーラからドーピングに引っかかるカフェイン入りドリンク、時計、コンピューター、女性用下着、飛行機、クルマ等あらゆるものに及んだ。

 しかも、これらの企業から上がった収益の一部はIOCの各委員にも提供されていた。サラマンチ会長とアディダスの社長の分はスイス銀行に振り込んでいた。また、ベンツ三十台がIOCに贈られた時には「五輪マークとメルセデスの星のマークは絶妙のコンビ」とコメントし、マスコミ陣から総すかんを食った。

 古代五輪の勝者に対する褒賞は月桂(げっけい)冠のみであるが、彼らは故郷に帰ると、さまざまな恩恵に預かって賞金や賞品、そして特権を与えられた。その結果、プロ化していき、競技者たちの精神的な退廃と月桂冠の価値の喪失は古代五輪を崩壊させていった。近代五輪の軌跡を眺めると、古代五輪が千百七十年ほどかけてたどった軌跡を、十倍のスピードでなぞっているように見える。

 近代オリンピックはゆっくりと滅びの道を歩みはじめていると、八四年のロサンゼルス五輪からともに取材している作家の沢木耕太郎氏が、近刊書で述べているのに同感である。

(上毛新聞 2004年3月5日掲載)