視点 オピニオン21
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大泉国際交流協会事務局長 坂井 孝次さん(邑楽町中野)

【略歴】新潟県三条工業高卒。大泉町の大手家電会社に40年間勤務。国の家電製品協会アセスメント委員長として、容器包装リサイクル法、廃家電リサイクル法の法制化に寄与。著書に『包装技術ハンドブック』(共著)など。

「ありがとう」の一言



◎互いの心開いてくれる

 たった一つの結果であるにもかかわらず、立場によって、その評価が大きく異なることに疑問と興味を感じる。しかも、身近な生活環境だけでなく、地球規模で注目される出来事にまで言えるから、なおさらである。

 判断しにくいときもあるし、「どうして?」と首をひねることも多くなったような気がする。尺度の違いと思いつつも、「もっと他の対応があるのでは…」と思うことが増えた。年のせいだろうか? それとも時代に取り残されそうになっているのだろうか?

 合併問題では「賛成派」「反対派」に分かれての正当性の主張はあるが、それに伴うリスクの話はほとんど聞かれない。オリンピック選手の選考でも、選ぶ側と選手の間で思惑の違いがあったように感じられた。イラクに代表されるような武器を持っての争いは、その最たるものである。

 かかわる人数が多くなるに従い、必然的に指導する側とされる側ができ、評価尺度の違いから不信が始まる。特に日本では、外国に比べ、争いを避ける傾向が強いので、不信は簡単にはなくならない。リスクを嫌ってだろうが、自らの問題であるにもかかわらず、正面から取り組もうともしない。むしろ解決を他人に依存するケースが多いのではないだろうか。

 まさかとは思いたいが、今もって三百年も前の名奉行のような裁きに期待しているように思えてならない。自分さえよければと問題に目をつむり、自分の考えも主張せずに小さなリスクを回避していると、やがては武器をもって「自分は正しい」と主張しなければならないような事態になる。しかも、最初に命を捨てるのは決まって「指導される側」である。

 こんな事態は願い下げだが、ぜひ想像してもらいたい。自分が指導する側だったらどうなるかと。甘い誘惑を断ち切ることなど、できるものではない。気付かぬうちに麻痺(まひ)して、やがて悪いことをする。指導的立場にある人に「私欲のない公平」を求めたいが、それは無理な注文と思った方がいい。よほどの大きな事件があっても、思い通りの判決が言い渡されるのは極めてまれである。

 人間は本能的に争うことが好きなようにも見えるが、争うよりも住みよい環境をつくることの方がはるかに簡単に思える。私利私欲さえ捨てれば、済むと思うから…。

 もう一つ、対応策を挙げるとすれば、小さなリスクを恐れずに自分の意見を主張することである。少なくとも甘い誘惑の近くにいる指導者にすべてを託しながら「国が悪い! 指導者が悪い!」と言うのだけは、もうやめにしたい。

 それでもリスクを負いたくないなら「ありがとう」の言葉だけでもいい。「ありがとう」と言っても、リスクを負うこともないし、お金もかからない。少なくとも今よりはいい環境になるだろう。恋人同士のように互いが認め合い、信頼し合い、楽しみながら生活を築き上げてきたではないか。「ありがとう」の一言は、やがて互いの心を開いてくれる。間違っても、いがみ合った末の「打ち首獄門」の沙汰(さた)だけは、いただきたくないと思っている。

(上毛新聞 2004年4月24日掲載)