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川場村繭かき唄保存会長 小林 民子さん(川場村生品)

【略歴】川場村民生委員、同村婦人会副会長、同村民俗資料館職員を経て、現在、同村民踊会長。昨年5月に結成された「川場村繭かき唄保存会」の初代会長に就任。

思い出す戦争の時代



◎大勢の犠牲の上に今が

 激動の時代の昭和も終わり、平成も十六年となりました。日中戦争、太平洋戦争も遠い過去のものとなりつつあります。最近の新聞には、イラク戦争後の紛争を伝える記事が毎日のように報じられています。それらを読むたびに自分たちの戦中、戦後が思い出され、その中を生きぬいてきた世代の私たちが、当時を語り得る最後の人ではないかと思っています。

 今の人たちには「何だ、そんなことか」と思われるかもしれませんが、当時のことを少し書いてみようと思います。小学校一、二年のころだったと思いますが、出征兵士を送るために朝早く起きて大人と一緒に村の神社に行き、神主の祝詞とともに「武運長久」を祈念します。その後、空き缶をたたきながら日の丸の小旗を振って「天に代わりて不義を討つ」や「勝ってくるぞと勇ましく」と軍歌を歌いながら村外れまで送ります。

 村外れの石垣の上に出征兵士が上って「一生懸命、お国のために頑張ってまいります」とあいさつをします。中には身重の奥さんと小さな子供さんを残して召集された人、恋人を残して出征された人もおられ、あいさつするのも感無量で言葉に詰まることもありましたが、私はまだ子供でしたので、その心情は分からず、ただ「万歳、万歳」と日の丸の小旗を振るのみでした。

 今にして思えば、そのまま帰ることなく戦死してしまわれた方も多く、ご家族の方々や、父親の顔も知らない子供さんたちのことを思うと、何と申し上げてよいのか分かりません。

 戦争が激しくなるにつれて物資も乏しくなりました。食料品や衣料も切符制になり、一人何点と決められたので、嫁入りを控えた娘さんなどは大変でした。母がその人の家へ点数を分けてやっているのを見た記憶があります。

 戦況が厳しくなり、戦死者の遺骨迎えも幾度となく数え、最後のころにはそれさえもできなくなり、出征する方も敵の目をくらますためと、こっそり出発するようになりました。

 小学校も国民学校となり、「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンのもと、ただ一筋に神風の吹くのを待ち続けた子供のころでした。

 食べ物も、今ならとても口にできないようなものを工夫して、お腹さえいっぱいになればいいと、粗食に耐えたものでした。砂糖などもわずかな配給で足りず、干し柿を作ったり、トウモロコシの茎を細かく砕いて絞る機械があって、そこへ頼んで絞ってもらい、その液を砂糖代わりに焼きもちにつけて食べたりしたものでした。

 干しうどんの細かく砕いたのや大豆などを米にまぜて炊きましたけれど、大豆のご飯は下痢をしたりして、あまり食べませんでした。トウモロコシの粉やコーリャンなどは今では家畜の飼料ですが、当時はそうしたもので飢えをしのいだものです。

 今の物余りの時代にこのような話をしても、とても信じてはもらえないと思います。でも、こうした時代を経て今があり、一枚の紙切れで召集され、国のためにと戦死なされた人たち、空襲によって亡くなられた大勢の人の犠牲の上に今があります。再び、あのような時代がきませんように心から願っています。

(上毛新聞 2004年6月17日掲載)