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県還暦野球連盟理事長 矢野 次郎さん(松井田町)

【略歴】高崎商高、明治大専門部商科(2部)卒。海軍航空隊などを経て、碓氷製糸農協勤務。松井田町体協会長、県体協理事を歴任。1996年、県還暦野球連盟理事長に就任。

碓氷製糸



◎松井田地域産業の灯を守ろう

 前回、私が勤務していたT製糸株式会社(松井田町)の倒産について書いたが、同社の倒産(昭和三十四年四月)は、町への波紋が大きかった。急きょ、町長は議会を招集、農業委員会議を開催して、養蚕農家の打撃を最小限度に抑える策をとった。既に元経営者から所有権を農協組織に譲渡したいとの希望があったが、残念ながらこれを受ける力のある農協はなかった。

 紆う余よ曲折を経て、農業委員会から生産物の加工処理の重要性が指摘され、ついに町議会もその方向に傾き、碓氷製糸農協の設立の運びとなった。海のものとも山のものとも先の読めぬ大きな“賭け”であったが、町は養蚕業育成という大義名分で、厳しい財政の中から多額の補助金を拠出した。

 早速、議会から組合長と専務二人が選出され、私もT製糸在職の経験を買われて設立業務に参画した。まず、松井田地内の六農協の同意を得るため、各地区ごとに理事会の招集等を願い出て、組合長と専務、私の三人で出席した。設立の趣旨から経営計画を説明し、同意を得る作業だ。約二カ月かかったが、これが功を奏して町ぐるみの設立賛同へと動いていった。

 なぜ、繭生産者を出資者とする経営が最善の策と考えたか。付加価値を高め、収入増を図るといったことは経済の原則であり、加工施設から利潤が生ずれば利用高配分が可能となることは、農業協同組合法の特色でもある。組合員の協力いかんで実現可能と強調した。私の体験からして、五年で利用高配分は必ず実施できるという確信もあった。T製糸勤務当時、本社経費が多額で利益の生ずる余地のない経営体質を知っていた。

 私も参事職となって以来、二度と倒産の姿を見たくないと心に誓い、ともに苦難の道を歩こうと約束した同志三十人を採用。倒産から二カ月後、新繭入荷と同時に操業開始となった。六農協の融資と役員個人保証の極めて少ない資金で発足し、金利負担の軽減に努めた。権利および固定資産の買収資金は幸い、地元の衆議院議員の紹介で国の金融機関から借用し、二十五人の役員の個人保証により、二年据置き十五年返済となった。

 職員には「掛目協定で繭が集荷できる努力」「高品質の製品の生産」を要求した。以来、年を追うごとに理念に賛同する組合員の増加と供繭量の激増は、予想以上の利潤を確保し、頭初の計画通り五年で軌道に乗せることができた。しかし、営業製糸との競合も激しく、気を緩めることなく真剣に取り組んだ。さらに利潤の追求に努め、約束の利用高配分も実現。どこの製糸よりも高い繭代金を支払う能力が備わってきた。

 これで組合製糸の本領が発揮できると自信を持ったときは、既に十五年の歳月が流れていた。いま思えば、私の退職まで三代の組合長とともに働いたが、彼らの献身的努力や養蚕農家の全面協力、従業員の忍耐のたまものであった。

 「碓氷製糸」の名で親しまれている組合は、現在でも養蚕農家の支えとなって操業を続けている。地域産業の核となる灯を、これからも地域一丸となって守っていきたい。

(上毛新聞 2004年6月26日掲載)