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東京経済大学教授 田村 紀雄さん(東京都八王子市)

【略歴】前橋市生まれ。太田高卒。東京大学新聞研究所、カリフォルニア大、中国対外経済大等で研究教育に従事。お茶の水女子大、埼玉大等で講義。東京経済大で学部長、理事歴任。日本情報ディレクトリ学会会長。

NPO先進国



◎隆盛の根は100年前に

 あるライオンズクラブに講演を依頼された。渡良瀬川沿岸にある町の、このクラブの創立三十周年を記念した例会である。与えられたテーマは「田中正造―ボランティア事始め―」。

 ライオンズクラブは、社会への奉仕を目的とした個人加入の国際団体の一つで、日本を含め世界中に単位クラブがある。このクラブが田中正造をテーマにしたのは、ふさわしいと思った。彼も、ほぼその全生涯を社会への奉仕に捧げた。国会議員のある時期には、その歳費(給与)さえも返上してただ働きしたのだから、ボランティア代議士といってもよい。

 田中正造は明治から大正にかけて、新聞人(『栃木新聞』創刊)、国会議員、思想家として生きたが、特に彼の名を後世に遺のこしたのは、渡良瀬川を中心とする北関東一円を巻き込んだ鉱毒問題の解決のために奔走したことである。

 その長い人生や活躍を短い講演時間で語り尽くすことはできないので、私は今から百年前、一九○四(明治三十七)年の田中正造に焦点を当てて語った。

 田中正造は百年前、すでに六十四歳であった。日本はロシアとの戦争の真っただ中で、大連に上陸し、渡良瀬川周辺の村々からも多数の青年が出征していた。一年前の明治三十六年まで、鉱毒地の村々に、築地本願寺別院とキリスト教婦人矯風会がそれぞれ独自に施療院を設け、医師を派遣して施療、投薬、さらに身の回り品、金品を送る義援活動を実践していた。田中正造の妻・かつも労働奉仕のため住み込んでいた。

 日露戦争下、田中正造は激甚地の一つ、谷中村(現在の渡良瀬遊水地)に入り、そこを拠点として運動を続けることにしたのも、このころである。彼の人々への最後の奉仕が始まる。残る寿命のおよそ十年間のスタートである。

 私は田中正造のこの晩年の人々への奉仕を語り、ライオンズクラブの人々に感銘を与えたと思う。

 近年、ライオンズのような歴史のある奉仕団体のほか、数多いボランティア団体が生まれている。その中にはNPO(民間非営利団体)、NGO(非政府組織)として設立されるものが多い。NPO法が生まれて以来、各種NPOは一万六千団体に上り、毎日、四十件近く認可されているという数字もある。

 NPO法人という認可をとらないで活動する団体、結社の数を数えることができないほど、今や日本はNPO先進国になろうとしている。日本人として胸を張ってもよい。

 私の大学院生ゼミの中に海外、特にアジアから来ている留学生は、このNPO先進国・日本に驚きを隠さない。修士論文に「日本のNPO」をテーマにしている者もいる。この隆盛の根は、百年前にあったのだ。私はこのことをライオンズのメンバーとともに確認したのである。

(上毛新聞 2004年7月15日掲載)