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月刊「マイ・リトル・タウン」編集発行人 遠藤 隆也さん(太田市新島町)

【略歴】18歳で上京、Uターン後の76年に「マイ・リトル・タウン」創刊。出版・印刷業やエッセイストとして活動。著書に「面白かんべェ上州弁」などがある。

木崎音頭


◎残したい上州弁や地名

 昔ながらの宿場の風情をかすかに残す木崎界隈(かいわい)をそぞろ歩いてみた。晩秋を思わせる風が頬(ほお)に冷たい。

 互い違いの十字路、木崎十字路は拡幅工事も終わり、すっかり新しくなっているものの、それでも、例幣使街道の宿場町としての名残が、そこはかとなく漂っていた。

 木崎街道の三方の辻(つじ)に/お立ちなされし色地蔵さまは…で始まる「木崎音頭」は、古い唄(うた)だという。やや古い唄の冒頭では、越後蒲原郡柏崎村で/小名を申せばあかざのむらの…と、宿場に飯盛女として売られてきた娘の出身地が出てきて、ギョッとさせられる。八木節のルーツがこの「木崎音頭」だといわれる。

 飯盛女とは同宿の旅籠(はたご)の、今でいう仲居さんというわけだが、その実体は泊まり客相手の売春であった。

 唄に出てくる色地蔵さまは表通りから北へ入ったところの、長命寺の門前にあるのだが、その台座には、寛延三年(一七五〇年)と刻まれているから、二百五十年ほど前に建てられたものだということが分かる。子供の無事な成長を願って建てられたらしい。

 しかし、同宿で働く飯盛女たちが寄る辺ない身を地蔵への信仰にゆだねて毎夕お参りしたので、いつしか色地蔵様といわれるようになった。ちなみに、それから五十―六十年後の文化・文政のころには旅籠屋が大小二十七軒を数えた、とある。当然、そこには大勢の飯盛女たちが働いていた。

 古い木崎音頭には次のようなフレーズもあった。

 姉はジャンカで金にはならぬ/妹売ろうと御相談きまる…。「ジャンカ」とは「あばた面」のこと。同類の上州弁に「ジャンガラゲ」(まだら文様)などがある。

 さらばさらばよお父さんさらば/さらばさらばよお母さんさらば…。例幣使街道は中山道倉賀野宿の追分を起点に、玉村宿、五料宿、柴宿、境宿、木崎宿と続き、太田宿、さらには栃木県の八木宿を経て日光へと向かう。

 知らぬ他国のぺいぺい野郎に/二朱や五百で抱き寝をされて…飯盛女のなげき節だ。

 その飯盛女の小さな墓標が同宿の北にある大通寺にかなりの数で残されているのだが、享年はみな二十代前半という若さである。

 晩秋の陽(ひ)は釣瓶(つるべ)落とし。長い影を引く通りには、チラホラと歩く人の姿がある。その姿に、花色惣模様(はないろそうもよう)の紬小袖(つむぎこそで)に、派手なあかね色の木綿裏の着物を着た飯盛女が重なってくるような気配があった。

 女通れば石取って投げる/男通ればにこっと笑う/これがやーほんとの色地蔵さまだがやー…。文末の「だがやー」は共通語なら「だよね」といったところ。こうした方言にはその土地のにおいや歴史、といったものが感じられてきて、貴重だなあと思う。来年には新田町も太田市になる。世の流れとは思うものの、上州弁同様、地名なども残せないものかと溜息(ためいき)をつく。

(上毛新聞 2004年11月21日掲載)