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富岡市立美術博物館長 今井 幹夫さん(富岡市七日市)

【略歴】群馬大卒。富岡市史編さん室長、下仁田東中校長、富岡小校長などを歴任。95年から現職。「富岡製糸場誌」「群馬県百科事典」など著書・執筆多数。

富岡製糸場と福沢諭吉


◎門下生が忠実に主導

 明治五年に操業を開始した三百人繰りの官営富岡製糸場は、産業革命の完成した欧米諸国のいずれの器械製糸場よりも規模が大きく、当時とすれば世界最大級の製糸場であった。

 ところが明治十三年、政府はすべての官営工場の払い下げ令を発した。その結果、明治十八年ごろまでには大方の工場は民間に払い下げられたが、富岡製糸場だけは残ってしまった。最大の原因は製糸場が大規模すぎて、当時の民間資本ではまだ手に負えない代物だったからである。しかし、明治二十六年、三井の銀行部が払い下げを受けた。その三井銀行の実質的なリーダーが中上川彦次郎であった。

 彼は自ら主張する工業立国論に基づき、かつ「日本の国家的事業は蚕業であり、外国の金を日本に吸収するものは生糸にほかならない」という信念のもとに富岡製糸場、担保流れの大●(おおしま)製糸場(栃木県)とともに四日市と名古屋に新しい製糸場を建設し、それらをフル活動して生糸生産を展開したのである。

 三井時代の初代の富岡製糸場の工場長は、大●製糸場から赴任してきた津田興二であった。

 彼らは一意に米国向けの輸出に力を注ぎ、生産の拡大を図ったが、新設した四日市、名古屋製糸場の経営不振が目立つようになった。中上川は経営の続行を主張していたが、やがて病魔に倒れ、彼の主張した継続論は途絶えてしまったのである。そして明治三十五年、ついに原富太郎経営の原合名会社に譲渡した。その断を下したのが朝吹英二である。

 結果的には右の三人の姿勢、態度が富岡製糸場の命運を左右したわけであるが、くしくも彼らには太い共通点があった。

 三人とも中津(大分県)の出身で、中上川と津田は旧中津藩士、特に中上川は福沢諭吉のおい(諭吉の姉が母)であった。また朝吹は旧中津藩士ではなかったが、大庄屋という家柄に生まれ、やがて中上川の妹を娶めとっている。さらに三人に共通したのは、いずれも福沢諭吉が指導した慶応義塾に学んでいたことである。

 中上川は明治八年にイギリスへ留学し、現地において井上馨、横山孫一郎、小泉信吉、原六郎らと経済学書の輪読会を持ち、経済学の研究を深めた人物である。帰国後、山陽鉄道の社長に就任、やがて三井銀行の実質的なトップに位置した逸材であった。

 彼は工業化路線を推し進め、製糸業以外にも石炭産業や王子製紙、芝浦製作所の経営など広い範囲にわたって活躍していた。当時、福沢門下の三大実業家と言われた中に中上川と朝吹が含まれていたほどの人物であった。

 福沢諭吉は明治八年に主張した「貿易不利論」から転じて、明治十七年には「貿易立国論」を唱えたが、彼ら門下生は明治二十年代以降、福沢の主張を忠実に実践したともいえよう。

 官営製糸場が渋沢栄一の影響下にあった尾高惇忠らの埼玉県勢が主導したのに対し、三井時代は福沢門下生の大分県勢が主導したという興味ある図式が、ここに描けるのである。

編注:●は偏が「山」、旁が「寿」

(上毛新聞 2004年12月3日掲載)