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富岡市立美術博物館長 今井 幹夫さん(富岡市七日市)

【略歴】群馬大卒。富岡市史編さん室長、下仁田東中校長、富岡小校長などを歴任。95年から現職。「富岡製糸場誌」「群馬県百科事典」など著書・執筆多数。

世界遺産登録に向けて


◎新たな資料の発掘を

 最近、明治十三年十一月十七日付の「田舎新聞 第二七〇号」を入手した。

 「田舎新聞」とは福沢諭吉の姻戚(いんせき)で自由民権を説いた増田宋太郎が編集長となって明治九年に創刊した新聞である。彼は明治十年に西郷隆盛が挙兵した際に、突如、中津(現在の大分県中津市)隊の隊長として部下を率いて西郷軍に参加し、目的かなわず鹿児島で戦死した人物であったが、新聞はその後も明治十四年まで続刊されていた。

 さて、その新聞で注目される記事は、「先日記せし末広会社より上州富岡へ遣われし工女二五人の姓名は左の如ごとし。その業を修め術(すべ)を研(みが)きて帰るの日は必ず産業の成熟を当地に見るを得んと今から待たれます」とあり、次いで「増田しか三十才。河野斐人妹かね二十一才。岩田耕路長女はる十一才」等と計二十五人の氏名が記されている。

 平民子女一人を除くと、すべて士族子女である。監督者は増田しかであり、彼女とかねを除けばすべて十代で十一歳二人、十二歳四人、十三歳五人という若年者が多かった。本資料は筆者にとって初見であり、全員の氏名や年齢については『大分県蚕糸業史』にも記述されていない。

 この若い集団が「末広会社より上州富岡へ遣われし」という目的を持ったのである。末広会社とは、明治十二年に旧中津藩士族百七十八人が自らの金禄(きんろく)公債と天保義社(明治四年に設立した士族の相互扶助機関)の出資金合計四千五百八十円で立ち上げた製糸会社である。

 ここで、特に監督者の増田しかについて触れたい。彼女は中津藩士で一刀流師範富永応助の長女であり、明治元年に十七歳で前掲の増田宋太郎と結婚した。宋太郎の死後は「賊魁(ぞっかい)の妻」と言われながら生活苦と戦っていた。この彼女が士族出資の末広会社から派遣される形の工女監督者に選ばれたのである。

 富岡への途中、彼女たちは十一月十八日に東京三田の福沢諭吉の家で一泊している。

 彼女たちの富岡行きには福沢諭吉の助言があった。実は明治四年に中津に洋学校が設立された。これも福沢の提言によるものであったが運営資金は旧中津藩主奥平氏の家禄の一部と天保義社からの拠出金を充て、運営には福沢諭吉と慶応義塾出身の小幡篤次郎、中上川彦次郎、津田興二等があたった。この時、中津の人々に学問の重要性を説いたのが『学問のすすめ』である。

 洋学校は明治十三年ごろから有効な事業として養蚕製糸業を取り上げ、増田らが富岡製糸場へ派遣されるときには洋学校から費用の一部を負担したほどであった。

 さて、この時期に「官営工場払下令」が出されたのである。富岡製糸場の目的は新技術の習得にあり、払下令は模範工場としての機能が終了したことを意味するものである。それでは増田らの意義・目的の意味がない。

 富岡製糸場が世界遺産の登録の対象になるためには、前掲の「田舎新聞」のような新たな資料をさらに発掘して富岡製糸場の歴史的価値を深めることも大切ではあるまいか。

(上毛新聞 2005年1月13日掲載)