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富岡市立美術博物館長 今井 幹夫さん(富岡市七日市)

【略歴】群馬大卒。富岡市史編さん室長、下仁田東中校長、富岡小校長などを歴任。95年から現職。「富岡製糸場誌」「群馬県百科事典」など著書・執筆多数。

甘楽社の歩み


◎器械製糸とは別な道を

 旧富岡製糸場(片倉工業富岡工場)に関しては、地元の人が意外と冷淡であるとか、無関心であるとかということを外部の方から聞くことがある。これは旧富岡製糸場が国指定文化財やユネスコの世界遺産に登録される場合に障害になるのではないかという配慮から生まれた言葉だとは思うが、実態は本当にそうなのか、またはそうだったのだろうか。

 これは、富岡製糸場の特性と地元養蚕製糸農家の特性がかみ合わなかったところから生まれた誤解であると考えたい。

 富岡製糸場の目的は、わが国の生糸を欧米並みの品質に高めるために洋式器械製糸の導入、外国人指導者の雇い入れ、日本全国から工女を募り、新技術を習得させることなどであった。

 その製糸場が富岡町(現富岡市)に設立された理由の一つに、当地が江戸時代から優良でしかも大量の繭生産地であることが挙げられた。確かに養蚕は盛んで、農閑期に婦女子が座繰機で繰った生糸が富岡町の絹市場で売買されていた。しかし、これは養蚕と製糸とが未分離であり、工場制組織ではなかったことを示すものである。

 富岡製糸場は購入繭の製糸が原則で、工場制組織を確立したものであった。このために富岡製糸場は通年にわたって繰糸できる繭の購入を図ったのである。そこで富岡町周辺から、どの程度の繭の購入があったのかを見ると、明治五年は全体量の41・8%と多かったが、十一年後の明治十六年には21・6%、十七年は10・0%、十八年は14・3%であり、以後もこれを超える状況ではなかった。

 これは一見、地元養蚕農家の富岡製糸場への非協力ともとらえることができるが、ここに地元養蚕農家の特殊性が絡んでくるのである。

 明治十三年、三井物産会社社員からの「各養蚕製糸農家が団結して生糸品質の斉一を図れば、生糸の販路や為替金についても便宜を図る」という提言により、組合製糸による北甘楽精糸会社(後の甘楽社。これから下仁田社が独立する)が誕生したのである。

 甘楽社は近くにある富岡製糸場の器械製糸を模範とせずに改良座繰製糸を基本とした。発足当時の組数は十三組であったが、生糸の売り上げが増大するに従って組数も増大し、やがて県外まで組織が伸びたほどであった。

 その売上高をみると、発足時の明治十三年は十一万円余、十四年は十五万円余と上昇を続け、三十年には百二十七万円余、三十三年には二百五万円余という大台を示し、事務経費等を差し引いた金額が直接養蚕製糸農家の収入として分配されたのである。

 このように富岡製糸場へ原料繭を渡すよりも付加価値のある生糸にした方が養蚕製糸農家にとっては利潤が大きかったのである。

 この状態は昭和十七年の甘楽社の解散まで続いていた。養蚕製糸農家が共同出荷・共同販売により組合製糸を立ち上げたことは器械製糸とは別な道を歩んだことであり、この事実を認識しておく必要があろう。

(上毛新聞 2005年3月7日掲載)