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県立女子大学教授 片桐 庸夫さん(新町)

【略歴】慶応大大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。専攻は国際関係論、外交史、政治学。著書『太平洋問題調査会の研究』で04年度吉田茂賞受賞。

投票率の低下


◎今こそ「公衆」の責務を

 国政選挙にしろ、首長や市町村議等の身近な地方選挙にしろ、最近の選挙では投票率の低さがとかく目につく。果たしてこれで問題がないのだろうか。

 一例を挙げるならば、二月の前橋市議選。住民の生活に直接大きな影響をもたらす大胡、宮城、粕川三町村の編入合併から初の市議選、合併後初の県都における市議選という理由から大きな注目を集めた。しかし、有権者の盛り上がりはなぜかいまひとつ。結果は、県内市議選で過去最低の55・23%に終わり、旧前橋選挙区では投票率低下傾向に歯止めがかからなかったという次第である。

 それに対する私たち有権者の態度は、前述の投票状況に格別疑問を抱くことも、懸念することもほとんどなかった。

 問題は、こうした様相が前橋市だけに限られたことではなく、全国共通の現象となっているということである。従って、全国どこでも、選挙後の投票率の低さに関しては、「ご多分に漏れず」われわれの地域でも、と安易に受け流す風潮さえあるといえないだろうか。

 しかし、そういった楽観的ともいえる受け止め方の背景には、民主主義の将来にかかわる深刻な問題が潜んでいるのである。

 今日の民主主義の源である近代民主主義の下では、制限選挙と呼ばれるように、政に参加する権利、すなわち選挙権を持つ「公衆」が納税額などによって制限されていた。以来、日本に限らず多くの国において、普通選挙実現に向け多くの労苦が費やされ、ときには血も流されねばならなかった。

 その成果としての普通選挙実現は、よいことに違いない。だが、私たちが選挙権を持つこと、言い換えれば「公衆」であることを当然視するようになるにつれて、その責務を軽んじるようになったことも否めない事実である。

 同様に、「公衆」である私たちが大切な民主主義を守り、発展させる当事者であるとの意識を希薄にし、安直に政党や候補者を選んで投票する、あるいは理由もなく棄権するといったことを繰り返すと、民主主義は健全性を失ってしまう。

 民主主義の基本が多数決にあることは論をまたない。それは、「公衆」が常に社会の問題に関心を抱き、選挙時には争点、政党の綱領、候補者の主張等を理性的に理解し、その上で清き一票を投ずることが大前提にある。

 私たちは、今こそ「公衆」としての責務と当事者としての役割意識を再確認する必要がある。経済的豊かさの享受、保障された自由や権利の永続を当然のごとくに前提とした政治参画への消極的ないしは否定的態度、そして無自覚な態度は、民主主義にとって致命傷ともなりうる危険性をはらんでいるのである。

(上毛新聞 2005年4月23日掲載)