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文芸評論家・筑波大学教授 黒古 一夫さん(前橋市粕川町)

【略歴】法政大大学院博士課程修了。92年から図書館情報大(現筑波大)に勤務。大学院在学中から文芸評論の世界に入る。著書、編著多数。

最近の自費出版本


◎感じられない問題意識

 批評家の端くれとして各種の「著作者名簿」に名を連ねているせいか、あるいは近・現代文学の研究者として大学に職を得ているせいか、毎月少なくない数の書籍や紀要の抜き刷りが送られてくる。その中には、親しくしている作家や批評家、出版社からの「謹呈本」もあるが、多くは未知の人からのものである。いわゆる「自費出版本」というものである。

 開封してみると、その本が何であるかの説明が全くないものもときにはあるが、ほとんどの本には「このたび、念願かなって○○(タイトルや本の種類)を出すことができました。ご批評をいただければ幸いです」といった旨のしおりが差し挟まれている。仕事の忙しいときは別だが、自分が最初の本を出した時(一九七九年『北村透谷論―天空への渇望』)のことを思って、これまではできる限り早い時期に目を通すことを心掛けてきた。「寸評」を記した礼状も、その都度出してきた。

 昨年暮れ、友人の作家、立松和平と恒例となった「誕生会」(立松十二月十五日、私十二日)で、たまたまこの種の送られてくる「自費出版本」の話になって、「日本が豊かになった証拠かな」「お礼のはがき代もばかにならないね」ということになったのだが、はがき代は別にして、送られてきた本に目を通す時間とその本の内容とのことを考えると、いささかじくじたる思いを禁じ得ない。

 というのも、小説集にしろ、歌集・句集、批評集、自分史にしろ、どんな自費出版の本からも著者の「必死の思い」は伝わってくるのだが、一方でそのほとんどから、この時代や社会を生きる者としての「批評性=批判力」が伝わってこないため、時間のロスを感じてしまうからにほかならない。別な言い方をすれば、なぜ自分は小説を、批評を、短歌を、俳句を、自分史を書く=表現するのか、といった根源的な問題意識が自費出版本には希薄なように思えるのである。

 書く=表現するという行為の内側には、表現者固有のこの時代や社会に対する「違和」や未来に対する「憂い」があり、そこから生じた「主張」があると思うのだが、自費出版本のほとんどからそれを感じることができないのである。

 これは、大学生の文学サークルが出している機関誌に載った作品からも感じることなのであるが、どうも昨今の(「アマチュアの」とあえて断っておきたいが)表現者は現状に甘んじ、追随しているのではないか。理由なき殺人の横行、教育現場における「いじめ」や「学級崩壊」、フリーターやニートの増加等々の社会現象に対して、何も感じないのだろうか。自分さえ(本を出せるほどに)「幸せ」ならば、それでいいのか。子や孫の「将来」はどうなろうと、知っちゃいないのか。

 現状に満足し追随する精神の根っこには他者への無関心、好奇心の衰退、歴史意識の希薄さがあると思うのだが、書く=表現する行為にもその「現代の病」がまん延しているように感じられてならない。これは、決して他人事ではない。自戒したいと思う。

(上毛新聞 2005年5月4日掲載)