視点 オピニオン21
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月刊「マイ・リトル・タウン」編集発行人 遠藤 隆也さん(太田市新島町)

【略歴】18歳で上京、Uターン後の76年に「マイ・リトル・タウン」創刊。出版・印刷業やエッセイストとして活動。著書に「面白かんべェ上州弁」などがある。

足尾の山の植樹


◎心に木を植える運動に

 荒涼とした足尾の瓦礫(がれき)の山での植樹活動、すなわち「春の植樹デー」(先月二十四日)には、千人をはるかに超す大勢の人々が参加した。

 強風に見舞われた去年の植樹会での参加者は八百人。それに比べて、今年は風もなく、活動拠点になっている足尾ダムの下流左側、大畑沢緑の砂防ゾーンでは今を盛りと桜が満開だった。

 通り沿いにずらっと並んだ車のナンバーは、宇都宮、栃木、そして群馬。一年ぶりに再会のあいさつをする人々の顔は、桜の花のようにほころんでいる。

 「今日はお天気が良くって、良かっ・た・ンねー」

 「たンたン言葉」から、ああ、この人は上州人だなとすぐに分かる。しかし、ここでの主流は栃木弁だ。独特な尻上がり調のイントネーションが、上州弁とはまた違った土臭さを醸し出していて、心のシントウ(芯(しん))をしびれさせてくる。

 「苗がまだ随分余ってっけど、どうするっぺ」

 傾斜角六〇度はあろうかと思われるはしごのような階段を上ること六百有余段。苗木やシャベル、あるいは土を背負い、アリのように人々が上っていく光景はまさに壮観である。

 あらためて地図を見ると、植樹地は赤倉山(一、四四二メートル)の、ちょうど中腹になる。はるか眼下に、足尾ダムとそれに続く渡良瀬川の源流、そしてセピア色に変色した足尾銅山の工場がたたずんでいる。

 豊かな緑に覆われ、人々の暮らしを優しくはぐくんでいた足尾の山々の荒涼化は、いわば近代化を急がねばならなかった日本の歴史の傷跡である。国や県の緑化事業が始まって、すでに一世紀。たしかに昭和三十年代の足尾のグランドキャニオンのような姿から比べれば、少しずつ緑は増えている。だが、一度壊した自然は百年くらいの緑化事業では、どうすることもできないのだ。

 渡良瀬川の上流や下流で環境問題に取り組んでいた市民団体、五団体が手を結んで「足尾に緑を育てる会」(代表・神山英昭さん)が結成されてから十年がたつ。自身も、取材活動からミイラ取りがミイラになるように会員になって十年。植えた木は全体から見れば、ほんのわずかだ。同会の十年に及ぶ植樹活動も、荒涼化した足尾の山全体から見ればほんの点にしかすぎない。

 同会発足のころ、顧問として参加した作家の立松和平さんは「(この活動は)心に木を植える運動です」と語った。

 そうだった。そのときの立松さんの独特な栃木弁が印象的だった。

 うわさによれば、足尾での植樹を通して人づくりも進めたいと、五月から別の組織で「森びとプロジェクト」が発足。足尾ダムの上流、松木沢・臼沢地区で「足尾・ふるさとの森づくり」が始まるという。

 またひとつ“心に木を植える”運動が生まれようとしている。

(上毛新聞 2005年5月13日掲載)