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文芸評論家・筑波大学教授 黒古 一夫さん(前橋市粕川町)

【略歴】法政大大学院博士課程修了。92年から図書館情報大(現筑波大)に勤務。大学院在学中から文芸評論の世界に入る。著書、編著多数。

繁華街の衰微


◎「共同体」の解体が起因

 先ごろの日曜日、「ヒロシマ・ナガサキ」から六十年ということを記念して、今月下旬に刊行される『林京子全集』(全八巻、編集委員=井上ひさし・河野多恵子・黒古一夫、日本図書センター刊)に装丁をお願いした司修氏と、前橋の市内で待ち合わせをした。

 司氏とは以前に拙著『三浦綾子論―「愛」と「生きること」の意味』(九四年、小学館刊)の装丁をしていただいて以来、作家(画家)と批評家という関係を超えて親しくさせてもらっていたのだが、司氏が六月の初めに前橋市から「萩原朔太郎記念前橋文学館」のスーパーアドバイザーを委嘱されたのを機に、仕事柄これまで各地の文学館と関係してきた私と話がしたいということで、「会談=放談会」が実現したのである。

 司氏とは広瀬川のほとり、前橋文学館の前で会ったのであるが、氏は顔を合わせるやいなや「どうなってるの、ひどいね」と慨嘆し、理由を尋ねた私に「駅からここまで歩いてきたが、人がいないじゃない」と言ったのである。その後、昼食を取るため広瀬川の遊歩道から弁天通り、立川町通り、アーケード街を歩いたのだが、確かに中心街の「惨状」は司氏の嘆き以上であった。通りに人はちらほらだし、お客の入っている店も数えられるほどしかなかった。

 新聞等で市当局や商工会議所などによって「市街地の活性化」が緊急の課題として取り上げられていることは知っていたが、現状がこれほどひどいとは思わなかった。たぶん、この現象は前橋市に特有なことではなく、県内各市のどこもが抱えていることなのだろうが、街を再生するプランなどということではなく、文学=文化にかかわる者として、その側面からこの繁華街の衰微ということについて考えを述べれば、一つには人々が「地域=共同体」を必要としなくなったということがあるのだろう。

 かつては生活の全体ばかりでなく人々の精神(こころ)にも深く関与していた「共同体」が解体してしまったが故に、人々の間に「優しさ」や「思いやり」といった心が失われ、買い物さえも心の交流を必要としない郊外のショッピングモールへ行って済ませる、ということになってしまったのである。

 このことは、司氏が文学館のアドバイザーに就任した理由の一つである入館者数の減少とも関係する。もちろん、この入館者数の減少にも理由はいろいろ考えられるが、最大の理由は学校教育や青少年教育の現場で「郷土の文学者」や「文化」について、子供や若者の心に響くような、あるいは関心を呼ぶような教育をしてこなかった「ツケ」が、いま回ってきていることにある。

 「歴史教育」と同じように、萩原朔太郎や萩原恭次郎などを「過去」に封じ込めてしまっているが故に、文学館を訪れてもう一度彼らの文学について知り、考えようとする人が減り続けているとしか思えない。

 いずれにせよ市街地の活性化には、「付け焼き刃=表面的」ではない根源からの切開と対策が緊急に要求されていると思われる。「文化」というのは、為政者だけでなく、誰もが自分の問題として考えるべきことなのだから。

(上毛新聞 2005年6月15日掲載)