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新生会・地域生活支援センター所長 鈴木 育三さん(榛名町中室田)

【略歴】立教大大学院応用社会学研究科修了。聖公会神学院専任講師を経て、84年から社会福祉法人新生会理事。地域生活支援センター所長。群馬社会福祉大短期大学部講師。

戦後60年


◎心に刻もう平和の誓い

 六月二十三日は「沖縄戦終結・慰霊の日」でした。今から四十年前、宮古島で開催された「国際ワーク・キャンプ」に参加した青春の日のことがよみがえってきます。復帰前のことでしたから、沖縄に渡るためには「パスポート」を必要としていました。初めて降り立った那覇港には、びっしりと米軍の上陸用船艇が埋め尽くしていました。

 当時はベトナム戦争の真っ最中でしたから、米軍占領下の沖縄は大通りに軍用トラックが大手を振って走り回り、空軍基地にはどう猛なサメのようなB52爆撃機。まさに、沖縄全島が米軍の基地と化していました(この現実は今も続いています)。

 琉球大の学生に案内されて行った南部の摩文仁(まぶに)の丘。そこで“鉄の暴風雨”にさらされ、洞窟(どうくつ)の中で平和な日々の来ることを願って戦場に散っていった若い命。多くの無垢(むく)な生命が失われたことを知らされました。それは、四十年前に私が知った沖縄戦の現実です。

 沖縄戦後五十年を期して、摩文仁の丘に〈平和の礎(いしじ)〉が建てられました。「鉄の暴風の波浪が平和の波となって、わだつみに折り返していくこと」を願ってデザインされたといわれます。ここは戦争の悲惨さ、失われた命の痛みを静かに訴える聖域です。

 十年前、再びこの地を訪れる機会を得、沖縄戦で亡くなったいとこの名前を探しました。出身県別に氏名が刻まれている刻名碑をたどりました。G県の碑を五十音順に追いました。そこに子供のころ、母から聞かされたW・Yの名前を見つけました。

 戦後六十年、彼の遺骨は帰らぬままです。二十歳そこそこで出征した一人息子の彼も、元気でいれば八十歳を迎えたでしょう。

 ひめゆり平和祈念資料館には、反戦・非戦・不戦への願いが記されています。

 「太陽の下で大手をふって歩きたい。水が飲みたい、水、水…。『お母さん、おかあさん』、学友の声が聞こえます。私たちは真相を知らずに戦場に出て行きました。戦争は命あるあらゆるものを殺すむごいものです。私たちは一人ひとりの体験をとおして知った戦争の具体を語り続けます」と。

 デイサービスに通われているEさんは海軍で出征し、沖縄上陸の際、米軍の機銃掃射攻撃を受けて負傷。「傷痍(しょうい)軍人」として内地の海軍病院に送還され、二年後に終戦を迎えました。おかげで奇跡的に一命を取り留めた、と語ってくれました。中国大陸の戦闘で右目を失明したAさんは、戦争の傷跡をその身に負いながら今日まで生き抜いてきました。

 召集令状一枚で戦地に赴いた先輩方をはじめ、多くの遺族、アジア諸国の人々に刻印された戦争の残忍な記憶は生涯消えることはないでしょう。未来に向かう私たちは「平和の誓い」を忘却してはなりません。

 太平洋戦争終結六十年を迎えるこの夏、私たちは一人一人の心身に刻まれた「戦争の記憶」、その歴史的事実に真しん摯しに向かい合いたいと思います。

(上毛新聞 2005年6月30日掲載)