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県立女子大学教授 植村 恒一郎さん(鴻巣市赤見台)

【略歴】東京都生まれ。東京大卒、同大学院修了。県立女子大教授。哲学者。著書『時間の本性』(勁草書房)により、02年度和辻哲郎文化賞を受賞。

良い人間関係


◎新しい仕方でつくろう

 「ニート」をはじめとして、「人間関係が苦手」な若者が増えているといわれる。世の中に「濃密な人間関係」が減ってきたともいわれる。確かにそうなのかもしれない。だが、「人間関係が苦手」とか、「濃密な人間関係」とか言っても、何を基準にそう言えるのか、はなはだあいまいな話ではないか。

 例えばケータイは、相手に直接つながる便利さがあるが、若者は電話よりはメールを使っている。電話で呼び出せば、相手の「今」を拘束するが、メールならそれがない。それだけ相手への思いやりが深いわけだ。これを「人間関係の希薄化」と見るのは一面的すぎるだろう。

 長山靖生氏の近著『いっしょに暮らす。』(ちくま新書、〇五年四月)は、「濃密な人間関係」を居住形態という視点から分析している。長山氏によれば、昔は本当の意味での「一人暮らし」はまれだった。子供時代を終え、さまざまな理由で親元を離れた若者は、外で「一人暮らし」をしたのではない。進学した者は寮や下宿に住み、働く若者は「住み込み」で働いた。

 「大家―店子(たなこ)(間借り人)」という言葉があるように、下宿の大家は親のように振る舞い、間借り人の生活全般に介入した。学生寮には「ストーム」「鉄拳制裁」などのうっとうしい習慣があり、住み込みで働く若者は集団生活だった。いじめもしごきも当然あった。今のように、プライバシーの守られる各戸別のアパートやマンションに、単身者が住むことはなかったのである。

 しかし他方では、こうした集団生活は、それを終了すれば「一人前」の大人として一人立ちすることができた。それが「結婚して所帯を持つ」ということである。つまり、集団生活は、社会における自分の生活の「上昇」へのステップであり、「結婚」は同時に「上昇」でもあった。例えば貧しい農村の娘は、都市に出て住み込みの「お手伝いさん」として働き、やがては「奥様」から縁談を世話されて、都市生活者の妻となることもできた。

 昔の社会では、生まれてから結婚するまでずっと集団生活で、「いっしょに暮らす」ことに慣れていた。その濃密な人間関係が、結婚して所帯を持つためのトレーニングにもなった。しかし生活水準が向上した今、結婚に「上昇」という動機付けはもうない。子供のころから個室をあてがわれ、親元を離れても快適な「一人暮らし」に慣れた若者が、「所帯を持つ」ことに少しちゅうちょしたとしても、それは当然のことではないか。未婚率の上昇には、客観的な根拠があるのだ。

 社会が成熟すれば、個人のプライバシーと生き方の多様性が尊重され、人間関係の濃い薄いも当然変わる。他者との「良い人間関係」は、われわれがもっとも望むものであると同時に、困難なものでもある。「この寂しさこそ、幸せの始まり」というのはシェークスピアの言葉だが、人間関係を新しい仕方でつくらねばならない時代になったのである。

(上毛新聞 2005年7月18日掲載)