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建築家・エムロード環境造形研究所主宰 小見山 健次さん(赤城村見立)

【略歴】東京電機大工学部建築学科卒。前橋都市景観賞、県バリアフリー大賞など受賞。著書に「1級建築士受験・設計製図の進め方」(彰国社)がある。

建築家の役割


◎素材を選び物語を演出

 モノや時代の「空気」をしっかりとらえた建築は魅力的である。必ずしも美的な要素だけが建築の価値を決めるわけではないけれど、家づくりの究極の目的が癒やしの場づくりだとすれば、より美しく魅力的であることに異論はないはず。「空気をとらえる」とは時代背景をにらみながら、モノとモノとの関係を探るいわば美の手法である。モノが本来持つ力をどう引き出すかにかかわる感覚でもある。

 例えば何の変哲もない「紙切れ」。それが新聞紙やチラシだとしたら「情報を伝える」という目的を果たした後のそれには何の価値もない。しかし、それに火がついたらどうだ。めらめらと燃え上がるそれは確実に人を戦慄(せんりつ)させ、身震いするほどに緊張させるだろう。炎となった途端にある力を発し、人がそれに与えた目的とは違った力で私たちに迫ってくる。モノが持つ本来の力とは多分そうしたものだ。

 美しいという価値は人がモノに与える評価だけれど、その中身についてはほとんど予測していない。だから皮肉にも出来上がる前の方が美しい建築ができてしまったりする。どんなに平凡な家でも、「建て前」のころは人に新しい何かを予感させてくれる。だから文句なしに美しい。建築を組み立てているおのおのの材料がそれらしくいてくれる唯一の瞬間でもある。

 屋根や壁が張られて、さらには色が塗られて家らしくなるにつれて、大方の建築はオブラートをかけたようにおとなしい「ただの家」になってしまう。本当は人の心をとらえる建築として、どう収束させるかが建築設計の本質であるのに、おそらく生きた素材表現への意思と力とが設計者にも施工者にも希薄なせいだろう。

 何世代もの間、生きながらえてきた建築がいまだに魅力的なのは木や土や石など、モノがモノらしくあるための操作が設計者や施工者の意思を介さなくても自然に導かれる時代に造られたからだ。かやぶき屋根の民家が美を意識して造られたものではないのに美しい理由は、そこに起因している。しかし、現代は少し様子が異なる。化学的な合成技術によって生まれた「新建材」は安易に使うと前述のような結果を引き起こす極めて危険な材料である。

 唐突できざな言い方だけれど、建築は観客を前にした「物語(ドラマ)」と言っていい。人は気持ちのいい景観や風景を求めているから、人前で建築が演ずべきドラマのテーマはさしずめ「癒やし」と言うべきか。それだけに空間を切り取り、そこに起用する役者としての建材を選び、趣のある「物語」を演出しなければならない建築家の役割は重い。ある高名な建築家がこうした演出のための切り口を「内は自分のもの、外はみんなのもの」と表現したが、見事に言い当てている。

 「家は家族が演ずるための舞台である」という構図には「観客」が登場しない。「家」は単に家族のための舞台ではなくて、多くの観客を前にしたそれ自体が生きたドラマなのだと思う。だからこそ、日本中で「心に染みる素敵なドラマ」づくりが求められてやまない。

(上毛新聞 2005年8月11日掲載)