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富岡市立美術博物館長 今井 幹夫さん(富岡市七日市)

【略歴】群馬大卒。富岡市史編さん室長、下仁田東中校長、富岡小校長などを歴任。95年から現職。「富岡製糸場誌」「群馬県百科事典」など著書・執筆多数。

速水堅曹と富岡製糸場


◎民営化主張し改革断行

 旧富岡製糸場が富岡町(現・富岡市)に決定したのは明治三年閏十月、操業を開始したのが同五年十月であり、さまざまな経過をたどりながら三井に払い下げられたのは同二十六年九月である。

 当工場は二十年間余、官営工場としての役割を果たしたが、この間、当工場に直接・間接的に関係し続けていた唯一の人物が旧前橋藩士の速水堅曹である。

 彼は明治三年六月、スイス人のC・ミュラーを前橋に招き、まさにわが国最初の器械製糸を導入した。しかし、外国人に対するデマや前橋藩の財政難等がネックとなり、わずか三カ月間でミュラーを解雇せざるを得ない事態に直面したのである。

 ちょうどそのころ、官営製糸場の設立問題が具体化され、彼は民部省の命によって富岡に赴き、製糸場の取とり建たて掛がかりの杉浦譲、尾高惇忠やポール・ブリュナと面談し、「新建製糸場の利害」を論じている。この時、彼は自らの経験から外国人指導による器械製糸場の設立は時期尚早であると述べたという。

 彼はやがて大蔵省勧業寮の役人となり、ブリュナの雇用満期終了直前に赤字続きの富岡製糸場の経営診断を任された。現地に赴いた速水は経営実態を他の製糸場と比較検討し、明治八年三月に赤字経営の原因を、(1)原料繭の高価購入(2)工女の低能率と未熟練(3)経費の多大さ―等にあるとした報告書を提出した。

 彼は、当工場は利潤源泉を放棄しており、労働面に対する資本の合理性が見られないことを指摘し、民間に払い下げることを強く提言した。このことがかえって当工場との関係を深め、明治十二年三月、彼は大蔵省勧業寮役人兼工場長として経営改革に努めることになった。

 彼の主張は常に民営化論であった。そこで政府の一部首脳との内々の協議の結果、彼個人に製糸場を貸与し、経営の好転を見た上で民営化を図ることが内定したのである。

 明治十三年の「官営工場払下概則」の令達を機に工場長を辞した彼は関係者とともに興した生糸の直接輸出会社の上伸会社頭取に赴任し、富岡製糸場の生糸販売を一手に引き受け利潤追求に努めたのである。ただし工場長を辞す際、品川弥次郎勧農局長より製糸場の教師役を懇願され、以後、新年のあいさつ等の中で常に経営革新を説いていたので、実際には製糸場経営に関する中断はなかったととらえることができる。

 しかし、工場長を辞したにもかかわらず諸般の事情から彼への貸与は実現せず、また払い下げ希望者も皆無のため、一時は工場閉鎖論まで飛び出した。このような状況下で明治十八年二月、彼は再び経営改革のために工場長となり、引き続き民営化に努めたのである。

 「想おもひきや手て植うえの菊も此この頃ごろのあめと風とにはむものとは」

 これは払い下げに際し、製糸場を手植えの菊になぞらえた彼の哀惜の歌であるが、常に改革のために民営化を唱えた彼の製糸場に寄せる思いは単純ではなかったことを示している。

(上毛新聞 2005年9月3日掲載)