視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
元書店役員 岡田 芳保さん(前橋市元総社町)

【略歴】群馬町生まれ。長年にわたり書店煥乎堂に勤務。常務を務めた。企画展などの実績でNHK地域放送文化賞受賞。詩や書にも取り組む。号は住谷夢幻。

甦ったサルトル(中)


◎20世紀を生きる不条理

 第十三回「野間宏の会」(五月二十八日)に参加した。サルトル生誕百年、野間宏生誕九十年の会である。サルトルと野間宏との関係を澤田直氏(フランス文学・思想)と海老坂武氏(フランス文学)が熱っぽく語り、百十数人の参加者を感銘させた。野間宏の文学とサルトルの文学・思想に通底する想像力の問題を具体的に深く掘り下げる講演で、刺激的だった。僕の中に五十数年前の時が逆流するように押し寄せてきた。

 サルトルの『嘔おう吐と』(一九三八年三月)。サルトル三十三歳の作品のエピグラムには、フェルディナン・セリーヌの「教会」の一節がある。「彼は社会的に重要な人間ではない。正真正銘。一個人である」と。もともと『嘔吐』の初稿は『偶然性に関する公開状』という題で、その後『メランコリア(憂愁)』と改題され、出版時に『嘔吐』となって発表された。サルトルが意図したのは「形而上的真理と感情とを文学的形態の下に表明すること」を小説化したかったのだという。

 『嘔吐』の主人公、ロカンタンとは「退役軍人」「若く見せたがる老人」という意味がある。サルトルは完全に「独りの人間」を描いた。人間存在とは何かを追求した作品なのだ。想像界から解放され、息苦しい現実に立ち戻り、存在との接触を取り返すことに「嘔吐」を感じる主人公ロカンタン。人間存在をこれほど哲学的に追求した小説はなかった。当時の青年にはバイブルのように魅力のある、毒のある作品だった。

 ロカンタンがある日、マロニエの木の根を前に「存在」について啓示を受ける。「嘔吐」するのである。あらゆるものが、すべて不条理で、偶然であり、何の意味もなく実在している。いま、再読しても面白い。存在の「偶然性に関する公開状」のように読める。カミュの『異邦人』は、どのように読めるだろうか? 再読してみようと思う。

 サルトルもカミュも一人の人間の生き方を「孤独」を書いた。二十世紀を生きる不条理を描いたのである。「人間存在」のぎりぎりの思想の可能性を描いたのである。

 僕は三十代初めに「孤独」に襲われたことがある。日本で味わったことのない「孤独」である。絶対絶命の「孤独」である。寂しさとか、悲しさではない。自分が、自分の存在が、ぬーとあぶり出されるのである。得体のしれないような、触れるような、言葉でもなく、知覚でもなく、感情でもなく、ただただ、ぬっぺりとした塊。

 何ものにもつながらない文化圏の共通性、関係性も断ち切られた自分が…、実存感覚のようなものが見えたのである。サルトルの『嘔吐』を思い出した。ロカンタンがマロニエの木の根っこを見て「嘔吐」する場面の、「嘔吐」感が分かった!と。この感覚なのだ! 北フランスのポー市に二カ月近く一人で住んだときの経験だった。

(上毛新聞 2005年9月28日掲載)