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独立行政法人国立美術館運営委員 黒田 亮子さん(伊勢崎市連取町)

【略歴】東京大大学院修了。県立近代美術館、県立館林美術館に専門職として約30年勤務。現在、独立行政法人国立美術館運営委員。

井上房一郎の活動


◎文化創造へ多くの示唆

 去る七月末、高崎哲学堂で井上房一郎忌が行われた。井上氏が九十五歳の生涯を終えて、すでに十二年が過ぎたのだ。氏は私に文化とは何かを教えてくれた忘れられない人であり、氏の活動を思い起こして感慨ひとしおであった。

 ブルーノ・タウトの高崎市での工芸活動は、時代とともに大きくクローズアップされるようになってきた。群馬交響楽団はその高い演奏レベルとともに、地方オーケストラの先駆として、地方文化を語るときには欠かせない存在になっている。また、県立近代美術館は地域の美術に軸足をおきながらも普遍的な視野で美術活動を展開して、地方美術館としては長い三十年という歴史を先年迎えた。

 いずれも本県が誇る文化活動であるが、そのどれも井上氏の活動がなかったなら存在しなかったか、または、そのありようは現在とは異なったものになっていたかもしれないのである。地方文化の見直しと活性化が叫ばれる今、多くの人々が文化に関心を持つようになり、さまざまな活動が活発に展開されるようになったが、時代に先駆けて果敢な活動を展開した氏の活動をあらためて検証してみると、その手法の中には文化を地域に根付かせていくための大きな示唆が含まれているのに気づかされる。

 井上氏は二十五歳で渡仏。一九二〇年代の文化の黄金期とも呼ばれるパリで八年を過ごし、帰国後家業を継ぎながらも地域の産業であった木工、竹皮細工、捺なっ染せん、織物などに斬新なデザインを施して市場での競争力を高める努力をし、その販路として軽井沢にミラテスという店を開いた。その活動に来日したタウトを受け入れ、銀座にも同名の店を開いたのであり、詳しい説明は省くが、当時の日本の政治的、社会的状況の中で、タウトが高崎で活動できたのは井上氏の存在があってはじめて可能だったのである。

 群馬交響楽団も戦後の荒廃の中で井上氏の呼びかけに始まったものであり、県立近代美術館もその開館に先立つ十二年も前の井上氏の檄げき文ぶんと啓蒙活動から始まったのである。

 こうした活動に共通するのはいつも≪共生≫の精神であった。その典型的な例が近代美術館設立までの経緯である。井上氏の美術館構想は戦前から始まる。氏は帰国直後から人間の住む場所には図書館が必要なように美術館も必要だと考えていたが時期を待ち、六二年、機が熟したと見るや県美術館設立準備会を作り、作家やコレクターに作品の寄贈を呼びかける一方で、自社ビルの上に展示室を作り、七二年まで計四十六回の展覧会を開催して、美術館の楽しみを人々に教えながら県に働きかけて、県立美術館設立につなげたのである。

 氏はいつも一人では活動をしない。理想を説き、夢を語り、実現するための具体的な方法を示し、個人の夢と理想を地域の人々の共通の夢と理想とし、それを公的機関の支援に委ねる。これこそ文化の理想的なありようではないだろうか。そして今、氏が残した最後の夢、公的な哲学堂建設は、私たちの精神の成熟度をじっと見守っているような気がする。

(上毛新聞 2005年10月16日掲載)