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県立女子大学教授 植村 恒一郎さん(鴻巣市赤見台)

【略歴】東京都生まれ。東京大卒。同大学院修了。県立女子大教授。哲学者。著書『時間の本性』(勁草書房)により、02年度和辻哲郎文化賞を受賞。

ルソーの『エミール』


◎250年たった今も新鮮

 女子大のゼミで、学生諸君とルソーの『エミール』を読んでいる。ある学生は「まるで今の話を聞いているようだ」と報告した。一七六二年の刊行だが、女性が家庭の外に出るようになり、少子化が進んだとか、家庭にこもろうとする「内向き」の女性がたまにいると、「外向き」派の女性たちが一致団結してそれを批判すると、ルソーは述べている。

 日本でも何年か前に「専業主婦たたき」論争があり、今年は政府の審議会で「パラサイト・ワイフ」なる言葉が飛び出して問題になった。家庭と子育ては、いつの時代にも模範解答がなく、人々を悩ませてきたことが分かる。

 このように現代的な『エミール』の中に、「子供が嘘(うそ)をつかないように」育てるにはどうしたらよいか、という話がある。大人は子供に「嘘をついてはいけない」と言葉でうるさく説教し、嘘をついた場合には厳しく罰するのが普通である。だがルソーは、どういう場合に子供は嘘をつくのかと反問する。

 それは、「服従の掟(おきて)が多すぎる」場合だ。「これをしなければいけない」「あれをしてはいけない」と、規則によって子供の行動を縛ると、それを守るのはつらいことなので、子供はできるだけ知られないように、それを免れようとする。これが、嘘をつく必要を生み出す。

 規則で縛った揚げ句に、嘘をついた子供を厳しく罰するのは悪循環だと、ルソーは言う。子供はますます、ばれないような深い嘘のつき方を工夫する。だから最初から、どうしたら子供が嘘をつく必要のない環境をつくれるかを、大人は考えるべきなのだ。大人に愛され、大事にされていると感じている子供は、嘘をつく必要がない。規則で禁止されるのではなく、信頼感にもとづいて行動する子供は、嘘をつかない。

 仮に嘘をついた場合は、それがどのように良くない結果を生み出すのかを、子供が自分で理解するように仕向けるのがよい。たとえば、「本当のことを言っても信じてもらえなくなる」という経験をした子供は、他者の信頼を傷つけることは、結局、自分を傷つけることになることを学ぶ。

 ところで、ルソーの議論は、子供だけの話だろうか。そうではないだろう。「利害によって何か約束することになると、もっと大きな利害がその約束を破らせることになる」という彼の言葉は、大人にとっても参考になる。現代の日本では、大企業の不祥事も多い。社長や役員がそろって頭を下げる光景を、何度見たことだろうか。社会の利害関係が複雑になり、ある利害がさまざまな細かい「禁止」を迫れば迫るほど、別の利害が今度はその「禁止」を破らせる。

 こうした悪循環が、嘘をつくことをそのつど正当化するので、嘘は他者との信頼関係を根底から傷つけるという一番大切なことが、大人の世界でも見えにくくなった。禁止や処罰を声高に叫ぶよりも、嘘をつかざるを得なくする原因を分析しようとするルソーの姿勢が、二百五十年後の今も新鮮に見える。

(上毛新聞 2005年11月2日掲載)