視点 オピニオン21
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NPO法人源流理事 豊原 稔さん(倉渕村岩氷)

【略歴】榛名高校卒。製紙会社や企画会社などを経て、スポンサーだった「はまゆう山荘」に勤務。趣味は山登り。「源流」では特徴ある地域づくりに汗を流す。

小栗上野介の史跡


◎夫人護衛の苦難味わう

 今年六月、倉渕村の東善寺住職をリーダーとする「小栗上野介の史跡を歩く会」に参加し、中高年男女十四人で野反湖から秋山郷切明温泉まで歩いた。この道は、幕末に倉渕村で罪なく斬首された小栗上野介の妻、道子が権田の村人に守られ、妊娠七カ月の身重で、吾妻―六合村―野反湖―地蔵峠―秋山郷へと険しい山道を越え、新潟から会津へ逃れた歴史の道である。

 当時、権田村から会津へ向かったのは道子(三十歳)、上野介の母邦子(六十三歳)、養子又一のいいなずけ鉞子(よきこ)(十四歳)と村役人、中島三左衛門を隊長とする村人二十一人の護衛隊で、夫人の世話をするために三左衛門の娘さい(十七歳)も加わっていた。

 隊は追手の目をくらますため、二手に分かれて行動。六合村和光原で落ち合い、再度二手に分かれ、母邦子と鉞子らは善光寺参りを装って草津―芳ケ平―渋峠を越え、越後をめざした。小栗夫人一行が向かう秋山郷越えは十七歳のさいには無理と地元の者に止められ、渋峠越えに加わった。

 和光原の地元からの十二人を含め総勢二十人、道子夫人を山駕籠(かご)に乗せて、秋山郷への山越えが始まる。和光原から野反湖まで約六キロの山道。今、野反湖まで車で行くことができ、途中に「小栗清水」の看板が目に入る。当時、ここで小栗夫人がのどの渇きを潤したといわれ、地元で大切に保存してくれている。

 われわれは野反湖畔から白砂山登山道を登り、地蔵峠から幾つもの沢を越え、百曲がりを下ってつり橋を渡り、五時間かけて渋沢ダムに着いた。ここで昼飯にしたが、当時は近くにお助け小屋があり、小栗夫人一行は体を休めたという。

 渋沢ダムから先の小栗夫人一行が歩いたとされる道は現在廃道のため、われわれは対岸のトロッコ道を歩くことになった。真っ暗なトンネルを幾つも通り、通行禁止の危険なトンネルは山を登り、下る。途中、雪崩による道の崩壊があったりする。対岸を見渡せば夫人らが歩いた道はどこをどう通ったか見当もつかない深い山。その山道を夫人一行は和山温泉へ直行したが、われわれは手前の切明温泉に向かった。護衛隊の苦難の一端を味わい、歴史が身近に感じられる山旅となった。

 護衛隊長、中島三左衛門は会津へ夫人らを送り、会津戊辰(ぼしん)戦争が終わると、東京―静岡に夫人を送り届け、村に戻ると今度は館林へ上野介の首を盗掘に出かけた行動の人。

 一八六八(慶応四)年三月、坂下五ケ村(倉渕村)で起きた「打ちこわし」以来の「小栗騒動」による関連の死者は三十数人。その中には小栗夫人の護衛隊員で、会津軍に加わり戦死した村の若者二人も含まれ、毎年五月、倉渕村で開かれている「小栗まつり」は小栗上野介父子、家臣と、こうした幕末動乱に殉難したすべての人々を供養する意味が込められている。

(上毛新聞 2005年11月30日掲載)