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8・12連絡会事務局長 美谷島 邦子さん(東京都大田区)

【略歴】正式名称は日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故被災者家族の会。事故で二男の健君を亡くした。現在、精神障害者共同作業所の施設長も務める。精神保健福祉士。

幸せな2人を見て


◎群馬での20年が重なる

 「二人で暮らします」と私たち職員に少し照れながら、うれしそうに報告してくれた。この精神障害者の作業所で知り合い、愛をはぐくみ、「結婚したい」という夢を実現した彼女、強い向精神薬の副作用にも負けず、バイトをし、ついに就労にこぎつけた彼、周りの人たちの理解もあった。統合失調症は思春期に発病が多く、百人に一人が発病するといわれる病だ。しかし、偏見も多く、家族が病気を理解するにもかなり時間がかかることもある。

 作業所では「死にたい」という訴えをよく聞く。私は、ゆっくり時間をとって話を聴くように努めたいと思いながら、ここで仕事をして五年が過ぎた。外から見えない心の傷に寄り添う仕事の難しさで、へとへとになることも多い。でも、今日の二人の思い切り幸せそうな様子に、思わず「やったー」と思う。

 日航ジャンボ機墜落事故から七年がたって、高崎アコーディオンサークルの萩原尚道さんから「藤岡で事故後のことについて少し話をしてください」と依頼された。藤岡市のボランティア団体が主催するこの講演会で、私個人の事故後からの七年間と遺族会の活動、藤岡の皆さまへの感謝の気持ちを四十分ほど話した。人の前で、しかも百人ぐらいの方の前で事故のことを話す経験は初めてだった。

 事故の起きた翌八月十三日からの藤岡市は、遺体を一刻も早く家族のもとにという思いで迅速な対応をし、公私にわたって機関が団結し事故対策に当たっていた。線香の煙と異臭と汗の中で医療関係者をはじめ、警察、自衛隊、消防団、ボランティアの方々は不眠不休だった。家族は涙することができないほどの緊張と絶望の中で、やっと確認できた肉親を抱きしめるようにして、藤岡の体育館を後にした。

 どの遺族にとっても、一生忘れられないあの二十年前の情景が、藤岡での講演中に昨日のことのように思い浮かんできた。しかし、事故を共に体験し、事故の悲惨さと命の重みをつぶさに見つめてくださった人々の前ということで、涙を流さずに話すことができた。そして、藤岡の方々とのネットワークが、この日からより広がったと思う。

 この二十年間、事故直後の藤岡をはじめ、御巣鷹の尾根への登山、前橋での出棺式、合同荼毘(だび)、遺品捜し、上野村での慰霊祭、群馬県警や前橋地検に要望書提出、さらに検察審査会、灯とう籠ろう流し、慰霊の園へと群馬の地を数え切れないほど踏んだ。遺族にとっては、群馬は、第二の「ふるさと」である。

 あの夏の日から二十年、目に見えない心の傷を癒やすプロセスで、過酷な事故当時を知ってくださる方々が黙って寄り添ってくださったことと、障害を乗り越えて幸せをつかみ、二人で暮らすようになった私の作業所に通うメンバーが重なる。

(上毛新聞 2005年12月8日掲載)