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鈴木服飾学園理事長 鈴木 良幸さん(前橋市表町)

【略歴】前橋市生まれ。小笠原流礼法を学び現在、礼法研究家(総師範)。学校法人鈴木服飾学園国際ファッションアート専門学校理事長。礼法の著書多数。

挨拶言葉


◎意思を載せて発しよう

 先日、ある方から「最近の若者はろくに挨拶(あいさつ)もできない」という愚痴を聞かされた。確かに気になるときもあるが、最近の若者だけのことではないと思うのだが…。本人はしているつもりでも、相手に伝える表現がうまくできないだけなのかもしれない。どの世代にも、そういう方はいらっしゃる。

 出会いのシーンで欠かせない挨拶は、コミュニケーションの入り口であり、その表現は意思を伝達する重要な手段といえる。今回は「挨拶」の本質について礼法研究の立場から触れてみようと思う。

 例えば、普段何気なく交わす挨拶「こんにちは」という言葉には、農耕民の文化が潜在している。単なる挨拶言葉ではなく、「今日は…」と、その言葉の後に会話が続く。大抵の場合、農耕に結び付く天候や季節の変化についての話題がつながってくるのである。

 冬は寒く、山間部には降雪がなければいけない。夏には気温が上がり、日照がなければいけない。風も雨も四季を通じて程よくなければいけないのである。このバランスが崩れた時、収穫は目減りする。そんなリスクの中、その日の天気を心配したり、喜び合ったりする。これが「こんにちは」の原点である。

 子供のころ、近所のお年寄りが、その日の天気にかかわらず、互いに「いい塩梅(あんばい)で…」と言葉を交わしていたことを、かすかに記憶している。当時は当然ながら意味すら考えたこともなかったが、今にして思えば、農耕の挨拶言葉の名残であろう。昭和四十年代前半までは、街中でも確かにそんな挨拶が日常に存在した。まさに「今日は」の後に付く会話である。

 「挨拶」とは、そもそも仏教用語である。どんな意味を持つ言葉なのかを探ってみると、面白いことが見えてくる。雲水(禅家の修行僧)が寺を訪れた際、玄関先で知見の深浅を問答により試され、実力が認められてようやく中に入ることを許されるという、この一連の行為を「挨拶」と言うのである。

 「挨」の字には、近づく、開く、「拶」には、迫る、の意がある。自ら近づき相手の心をこじ開ける、そんな力強い意味を持つ。私たちは生活の常識の中にその言葉を借りて暮らしているのである。そこには、「心を開いてお互いに理解し合おう」という約束事があることを忘れてはいけない。

 私たちは、挨拶という行為の中で交わすさまざまな言葉を持っている。しかし、日常を振り返ってみると、その言葉は単なる音のやり取りで済ませてしまっていることが多い。習慣とはそんなものかもしれないが、挨拶言葉に意思を載せる大事な作業をつい忘れしまうのである。意味を持たない音のやり取りは、いつしか生活の中から姿を消してしまう。

 朝、「おはよう」の言葉に「今日も一日頑張ろう」という意思を載せて発すれば、声の張りや表情も変わり、空気までもがピンとして、エネルギーがわき出る気がする。挨拶言葉にはそういう力がある。まさに言霊である。

(上毛新聞 2006年1月1日掲載)