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中央ユーラシアクラブ群馬事務局長 後藤 康子さん(前橋市西片貝町)

【略歴】共愛学園高卒。中央ユーラシアクラブ群馬事務局長。中央アジア・コーカサス研究所理事。日本ウズベキスタン協力委員会委員。インテリアゴトウ取締役会長。

シルクロード再発見


◎世界遺産の誕生夢見る

 国立民族学博物館名誉教授の加藤九祚先生によれば、シルクロードの根本理念は「あらゆる文物(学問・芸術・宗教・法律など文化に関するもの)や物品をして、国家や民族に関係なく、それを欲する人々のところへ自由に流通せしめよ」という。

 シルクロードという述語を初めて著作で用いた学者はドイツの地理学者リヒトホーフェン(一八三三―一九〇五年)であった。ユーラシア北方のステップ(草原)路、中央部のオアシス路、南海路(海のシルクロード)の三ルートがあった。

 広い意味でのシルクロードは、漢代以前から中世まで存在し、絹に限らず、時代や地域によって主要商品が違っている。「ガラスの道」「玉の道」「黄金の道」「琥珀(こはく)の道」「香料の道」「毛皮の道」などもシルクロードの概念に含まれる。シルクロード上の人々の移動に伴う文物の伝播(でんぱ)はさらに重要である。仏教の東伝はその代表的なものだ。

 最も古いものは、北方ステップ路。紀元前五世紀のギリシャの大歴史家ヘロドトスの『歴史』には、黒海沿岸の遊牧民スキタイが、言葉の違う七人の通訳を使って、東方のアルタイ方面(南シベリア)と交易をしたと書かれている。遊牧民は当時にして、これほどにも移動していたのである。

 次がオアシス路である。ステップ路とつながっているとの観点から見ればかなり古いが、大いに発展したのは、やはり紀元前二世紀の張騫(ちょうけん)以後とみられる。

 南海路は初めスパイス(香料)の道として、特に紀元一世紀の初め、ギリシャの船乗りヒッパリスが季節風を発見して後、大いに発展した。隋・唐代になるとイスラム教徒の地域と中国との海上貿易が盛んになり、ステップ路、オアシス路は、しだいに南海路によって圧迫されるようになった。シルクロードは、南海路の発展によって、その終末を迎えたといえる。ヴァスコ・ダ・ガマ(一四六九ごろ―一五二四年)はヨーロッパとアジアを海路で直接連結した。

 「現代はシルクロード再発見の時代であり、シルクロード再発見のロマンを読者と共有できれば幸いである」と『シルクロードの大旅行家たち―張騫、玄奘(げんじょう)、ルブリュック、マルコ・ポーロ、イブン・バットゥータ、プルジェワリスキー、オーレル・スタイン』の著者、加藤先生(現在ウズベキスタン南・テルメズで仏教遺跡発掘中)は言われる。先生には過去数回にわたり前橋での講演(県庁、市民文化会館、群馬大学など)をいただいている。

 「県都前橋生糸いと)の市まち」「銘仙織(お)り出だす伊勢崎市」「桐生は日本の機どころ」「日本で最初の富岡製糸」「繭と生糸は日本一」…二十一世紀グレート・シルクロード世界遺産の誕生を夢見る一人です。

(上毛新聞 2006年2月6日掲載)