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下仁田自然学校長 野村 哲さん(前橋市三俣町)

【略歴】長野県生まれ。65年前橋に移り住む。群馬大学社会情報学部教授、学部長などを歴任。上毛新聞社刊「群馬のおいたちをたずねて」など編著書多数。

地質調査


◎若者に行動の退化現象

 科学技術の進歩、小中高の教育方法の変化、子供が家の手伝いをしなくなったことなどによって、若い世代に体を動かす能力の減少を招いている。学生の行動も一九七〇年代前半までは、比較的健全であった。数十人の学生と野外実習に出かけ、事前に渡してあった岩石ハンマーを使って石を割り、岩石の特徴を観察した。当時の学生は、うまく石を割ることができた。

 ところが、八〇年代の後半になると不器用になり、ハンマーを回収すると、数本の柄が折れていた。さらに九〇年代に入ると、数人の学生がハンマーを振るうものの、大部分の学生は、ハンマーをリュックに入れたまま、石をぼんやり眺めているだけである。

 石器時代の人類は、狩猟・採集の生活で、体を動かすことによって、食料を得ることができた。当時の子供の教育は、狩猟・採集の仕事を親や仲間と一緒に行動する中で行われた。

 筋肉を使わない傾向は、地質調査の研究にも現れている。私たちの学生時代は五〇年代の後半であったが、野山を歩くことが楽しく、卒業研究では長野県最北端の小お谷たり村の山を、延べ百二十日間歩いて論文にした。この経験が、地質の研究を私の一生涯の仕事にしてしまったのである。

 現状はどうか。残念ながら、地質調査を主にする研究は“風前のともしび”といっても過言でないほどに、衰退してしまっている。その原因の一つは、幼いころから野山に出かけない、自然を楽しまないことにある。この流れは大学の研究者にも波及し、山野を歩かず、室内で高価な機器を使って短期間に結果を出して論文にするようになった。また、こうしないと、論文数が稼げず、大学からはじき出されてしまう、というのである。

 八〇年代までは、全国の国立大学のほぼ全部に地質学鉱物学教室、地質学教室、または地学教室が設けられていた。しかし、九〇年代に入ると大学の改組が始まり、地質学を柱にした学科または教室は教育学部を除くと宇都宮大農学部地質学研究室、新潟大理学部地質科学科、信州大理学部地質科学科だけである。

 この衰退に拍車をかけた、第二の原因は、プレートテクトニクスの普及である。これは地球表層が何枚かの板からできていて、これが移動してぶつかり合ったり、もぐり込んだりして山脈ができ、海溝ができる、という考え方である。「山野を地質調査する時代は終わった」と発言する研究者が現れたほどだ。しかし、ひとたび地震が発生すると「○○プレートが動いたからだ」で片付けてしまい、事後の責任はどれだけ果たしたか。気楽なものである。

 二〇〇四年十月に発生した新潟県中越地震の直後から、被災地の地質調査を続けてきたのは、新潟大学とその卒業生を中心にした人たちであった。現在も調査を継続中であるが、すでに、田畑や住宅地盤の形成過程が、災害に大きく影響していることを明らかにしている。また、調査の成果を被災地の人たちに届けようと、各地で講演会を開いたり、二千部を超える調査報告書を普及してきたのである。生活地盤の安全性をどのようにして確保していくかは、まさに地質学の問題であり、人類共通の課題である。

(上毛新聞 2006年2月18日掲載)