視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
群馬大学教育学部教授 山口 幸男さん(前橋市千代田町)

【略歴】茨城県出身。東京学芸大大学院修士課程社会科教育専攻修了。専門は社会科教育学、地理教育学。日本地理教育学会会長、日本郷土かるた研究会会長。



「鶴舞う」本県の形


◎県民が主体性を確保

 今日、県民のほとんどが本県の形は「鶴舞う」形であると認識しているが、明治時代には「海鷂魚(かいようぎょ)」ととらえられていた。明治十四年発行の『上野地誌略』には「地形海鷂魚ノ如(ごと)クニシテ東山道中一國(こく)ナリ」とあり、同十七年の『群馬県統計書』には「東南ニ斗出(としゅつ)シテ其そノ形殆ほとんト海鷂魚二似タリ而(しか)シテ首ハ西北ニ向ヒ尾ハ東南に伸フ」とある。

 「海鷂魚」とは魚類の「エイ」のことで、向きは鶴とは逆の首は西北、尾は東南となっている。『群馬県統計書』の記述は大正三年まで続き、三十年間以上にわたって、本県の形は海鷂魚と認識されてきた。そして、同四年において「其ノ形恰(あたかも)鶴ノ舞フカ如ク首ハ東南に向ヒ尾ハ西北に伸フ」と鶴の形に変更され、向きも逆になる。

 一方、明治十六年発行の小学校郷土地理教科書『群馬県地誌略』においては、「其ノ形恰舞(まう)鶴ノ如シ」とある。県の形が「舞う鶴」として比喩(ひゆ)されたのはこれが最初であり、その後も、学校教育を中心に「鶴」の形としてとらえられていく。このように、明治時代には「海鷂魚」と「鶴」が併存していくが、前述のように大正四年において「鶴」に統合される。明治時代に「海鷂魚」に例えられたのはなぜか、大正初期に「鶴」に統合されたのはなぜか。これらは興味深い謎であり、以下、私の推理を述べてみたい。

 エイという魚類は西日本において、特に山口、福岡県などで漁獲が多く、西日本の人々にとっては今日においてもなじみ深い日常的な魚である。関東・東北地方においての漁獲は少なく、特に、内陸県の本県にとってはあまりなじみはない。明治維新後の本県の政治の中心となったのは、初代県令・楫取素彦(かとりもとひこ)(長州出身)をはじめ、西日本出身の人々であった。彼らが群馬の地図を見たとき、エイの形を連想したのも無理はない。

 なぜなら、鶴よりもエイの方が形の比喩としては自然なように思われるからである。群馬県統計書担当官も西日本出身であったのであろう。そのため、「海鷂魚」に似ていると記述したのではなかろうか。一方、『群馬県地誌略』で「舞う鶴」と学んできた小学生たちが成長し、県庁で活躍する時代になると、統計書記載の「海鷂魚」に違和感を持ち、自分たちが学んできた「鶴」に書き改めた、というのが私の推測である。

 「海鷂魚」は外からとらえた群馬県であり、「鶴」は内からとらえた群馬県である。大正初期に「海鷂魚」から「鶴」へと認識が統合・転換したことは、県民が自らの地域に対する主体性を確保していった歴史的なひとこまと見ることができ、貴重な意味を持ってくる。裏付けの不十分な邪推にすぎないが、一つの仮説として提起したい。それでは、何ゆえ『群馬県地誌略』において「舞う鶴」が連想されたのだろうか。今後、この最大の謎を解明していきたいと思う。

(上毛新聞 2006年3月30日掲載)