視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
前橋演劇倶楽部代表 小平 人資さん(前橋市上新田町)

【略歴】群馬大学卒。公共ホール勤務を経て演出家となる。県民芸術祭運営委員、県地域創造基金運営委員、前橋デザイン会議委員。社会保険労務士。


イプセン没後100年

◎台詞の中に自らの叫び

 今年の五月二十三日はノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセンの没後百年に当たります。今日でこそマイナーなイメージの北欧文学ですが、かつては芸術家や文化人には必須の教養だったようで、山本周五郎『青べか物語』の主人公の愛読書は、たしかストリンドベリの作品だったかと思います。

 ところで、日本の近代劇は、明治四十二年十一月、小山内薫らの自由劇場が有楽座でイプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』を上演したところから始まったといわれていますが、同四十年には柳田国男を中心に、田山花袋や島崎藤村らが「イプセン会」を結成しており、演劇のみならず日本の近代文学そのものがイプセンから出発したと言ってもよいのではないかと思います。同四十四年、『青鞜』創刊号に平塚雷鳥が翻訳評論を掲載し、イプセンの作品をめぐる論争に新風を巻き起こしましたが、当時の「イプセン熱」現象がうかがえるところです。

 『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』の内容を紹介します。鉱山労働者の息子から実業家となったボルクマンは、栄光と権力の王国を築こうという野望にかられ、銀行頭取の地位を利用して銀行の金を流用します。この秘密を知っているのは弁護士のヒンケルだけです。ボルクマンは裕福な双子の姉妹に愛されますが、ボルクマンは妹のエルラを愛しています。しかし、ヒンケルもまたエルラを愛していたのです。

 そこでボルクマンは、ヒンケルの歓心を得るためにエルラを彼に譲り、自分は姉の方と愛のない結婚をします。そして権力への階段を上っていきました。しかし、エルラはヒンケルとの結婚を承諾しません。承諾しないのはボルクマンが後ろで糸を引いているせいだと邪推したヒンケルは、ボルクマンを裏切って一切の不正を暴露してしまいます。そのため、ボルクマンは八年の刑に処せられました。刑期を終えて家に戻ったボルクマンは、階上の一室に閉じこもり、さらに八年間、階下の妻子と顔を合わせていません…。劇はここから始まります。

 ところで、この劇の第二幕に興味深い台詞(せりふ)があります。愛を裏切られたエルラがボルクマンを糾弾する場面です。「あなたは、あたしの中にあった愛を殺してしまったのよ。その意味がどういうことかおわかりになって? 聖書の中に、決して許されることのない謎の罪のことが書いてあるわ。それが何なのか、どうしてもわからなかった。今、それがわかったわ。決して許されない罪とは、…人間の魂の中にある愛を殺すことよ」

 実は、イプセンは六十三歳のときに知り合った二十七歳のピアニストに強く引かれました。しかし、スキャンダルを恐れたのか、恋の情熱は退けてしまいます。そして、世界的大作家として成功を収めました。ですから、老年にさしかかったイプセンが後悔を込めて自らに下した審判、それがこのエルラの台詞だと思うのです。エルラの糾弾はイプセン自身の叫びでしょう。自分をごまかして生きてきて、一体誰の人生だったのか…? イプセンの独り言が聞こえてくるようです。










(上毛新聞 2006年5月14日掲載)