視点 オピニオン21
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下仁田自然学校長 野村 哲さん(前橋市三俣町)

【略歴】長野県生まれ。65年前橋に移り住む。群馬大学社会情報学部教授、学部長などを歴任。上毛新聞社刊「群馬のおいたちをたずねて」など編著書多数。


新緑と人の心

◎本能的に感じる喜び

 南牧、下仁田、妙義(富岡市)、松井田(安中市)など、西上州の里山は、新緑から深緑に変わる季節を迎えた。太陽の光が、芽吹きを始めた木々の枝の間を通って地面に届く季節は、フクジュソウ、アズマイチゲ、ニリンソウ、チゴユリ、カタクリなどが一斉に花をつける。そして、大木の葉で地面が暗くなる深緑の季節を迎えると、例えばニリンソウは葉が枯れて、どこに生えていたかも分からなくなってしまう。植物たちも春を競ってすみ分けているのである。

 新緑は万人の心を打ち、その美しさは、言葉では表現できない。この色は毎年めぐってきて、人々に生きる喜びを与えてくれる。

 新緑は、どうしてこれほどまでに人の心を打つのだろうか。これに関する答えは、学術的に明らかにされているわけではないが、筆者は次のように考える。

 人類はサルから進化したことが分かっている。アフリカの熱帯地方で、およそ五百万年前に誕生した旧石器時代の人類は、いわば、その日暮らしの狩猟・採集の生活をしていた。少しずつ生活するための文化を築き、やがて温帯でも生活できるようになった。野草や木の実が少なくなる冬を過ごすためには、木の実を蓄えなければならなかった。ウサギ、シカ、ナウマンゾウなどは逃げてしまうので、狩りに出かけても、十分な食料が得られるとは限らない。

 春は新緑とともに訪れる。熱帯地方を離れ、農業や牧畜の文化を持っていなかった旧石器時代の人類は、草木が芽吹く春の訪れほど、待ち遠しいものはなかったに違いない。およそ一万年前に、農耕・牧畜を営む新石器時代を迎えると、さらに、四季の変化に左右される生活になっていった。こうした生活が百万年以上も続くと、春が訪れる喜びが遺伝子に組み込まれて、今日の人間にも引き継がれている、と思われる。つまり、本能的に新緑の喜びを感じるようになったのである。

 パソコンゲームに熱中している子供は、新緑に触れて喜びを感じることが少なくなる。リストラが進行し、競争社会の中で生きていると、新緑の心を忘れ、自然散策の楽しさを想像する余裕すらなくなる。

 「国際化」を図るために、すべての学校を秋入学にすべきだ、という意見がある。私は、これに反対である。すでに述べたように、とりわけ、幼稚園児や小学生の入学は、新緑を迎える季節がいいと考えるからである。さらに、新緑の喜びを味わえるような理科教育の工夫が必要である。沖縄と北海道とでは、新緑の季節にずれがあるのは仕方がない。

 秋はどうだろうか。秋は収穫の季節、人に紅葉の喜びを与える、というよりは、冬越しの準備をする季節である。

 幼い世代に向けた教育は、心の準備、ときには説教で始めるよりは、新緑の喜びで始める方が子供は素直に受け入れ、心が豊かになる、と考える。











(上毛新聞 2006年5月24日掲載)