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重要文化財彦部家住宅館長 彦部 篤夫さん(桐生市広沢町)

【略歴】群馬大大学院工学研究科修了。彦部家49代目。三洋電機に31年間勤務し、05年5月に退職。現在は文化財の有効活用を目指し、多彩な取り組みを展開中。


始祖・彦部信勝

◎継承にこだわる遺訓

 新緑の五月、ルーツ探索の旅としゃれて、新潟県上越市の上杉謙信の居城、春日山城跡を訪れてみました。本丸から眼下に往時をしのぶ市街地を、そして、その背後にある京都への海路・日本海を感慨を持って眺望することができました。というのは、一五六〇(永禄三)年九月、同じ場所を時の関白、近衛前さき嗣つぐ公が謙信を頼ってここを訪れ、その名誉を記念して名付けた本丸に通ずる参道「御成街道」をも確認することができたからです。

 実は、この前嗣公の京からの下向に桐生彦部家の始祖・彦部信勝が供奉(ぐぶ)していました。一行はしばらく春日山城に逗留(とうりゅう)後、前橋を経由して桐生に入りました。この時の信勝は「上毛に住んで関東の動静を京都に注進せよ」との重い内命を受けての桐生入りであり、そのため桐生定住後も政治的には桐生氏・由良氏と一線を画し、将軍家側近の武士として身を処していました。

 しかし五年後、京都二条御所で倒幕クーデター(三好の乱)が勃発(ぼっぱつ)し、将軍足利義輝とともに父晴直・兄輝信が殉死したため、彦部家は長年住み慣れた京都を完全にあきらめ、桐生に定住することとなりました。桐生入り後、信勝は池泉回遊式庭園に代表される屋敷構築による京文化の再現のみならず、手臼山の北ろく、館の西に福厳寺を建立し、父兄の菩提(ぼだい)を弔っております。

 一方、その数年後、豊臣秀吉による大閣検地が実施され、これを契機に帰農し、母屋を武士館から豪農館に変え、竹すのこの床や天井、土間造りと極めて質素な農民生活を体験しております。また、一六〇〇(慶長五)年の関ケ原の合戦には、いち早く彦部家竹ケ岡の竹を旗竿(はたざお)に地元桐生で織り出された旗絹を取り付け、徳川方に献上したため、合戦後まもなく桐生領五十四カ村は賦役免除の地、そして彦部家は代々郷士として屋敷全体を免租地とする栄誉に浴しています。

 この時の様子を信勝は「…鞆(とも)の御所様(足利義昭)より家康様へ征夷大将軍をお譲り、天下またご同流に帰しければ先見の明を感じ、且(か)つ悦(よろこ)び殊(こと)に徳川家は累代積善の名家と申し、公明徳勝れさせ賜わば御代永く泰平なるべし、誠に国家の慶事なり」といい、源義家の奥州征伐にも重用した由緒ある竹を源氏の血を引く家康へ進呈した喜びを記録に残しています。

 群雄割拠の戦国時代、時代を先取りし、数々の改革断行、特に武士から農民へ身を転じ、歴史継承にこだわった信勝の選択は没後四百年経た今日、彦部家屋敷が貴重な重要文化財として来館者に受け入れられていることは、当時の決断が正しかったことを示していると思います。その心情は、家譜「…我が家の荒廃等に至っては算(かぞ)えるに足らざれば子孫良くその時に従い慎みて分限を守り、然(しか)れども争いの心を起こす事なかれ、と遺訓を残して死す」との記述に見ることができます。

 今後も桐生彦部家初代信勝の遺訓を尊重し、先祖より預かった文化遺産を子孫代々素直に、また感動を持って未来に継承していこうと考えております。












(上毛新聞 2006年5月25日掲載)