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俳人・古本屋経営 水野 真由美さん(前橋市千代田町)

【略歴】和光大卒。80年前橋市三俣町に古本屋・山猫館書房を開く。句集「陸封譚」で第6回中新田俳句大賞受賞。俳句誌「鬣(たてがみ)TATEGAMI」編集人。


萩原朔太郎生家跡

◎石碑ばかりでは寂しい

 壊れずにちゃんと古くなっていく物は、まじめに作れば作ることができる。でも、いきなり古い物を作ることはできない。

 だから、やっぱりもったいなかったなあと思うのが、前橋市にあった詩人、萩原朔太郎の生まれ育った家だ。

 今年は生誕百二十年で、いろいろな企画があるという。生家跡は駐車場から大きなマンションになり、案内板も立った。しばらく前、それを見に行った。国道17号のところで、すさまじいビル風が生まれていた。

 生家跡の通りには「朔太郎通り」と名札が付いていた。なんじゃ、こりゃ? 前橋は、家をなくして名前を残したんだ。

 子供のころ、父に連れられて一度だけ、朔太郎生家を訪れたことがある。妹さんがいた。きれいなおばあさんだなあと思った。後で父が「若いころは孔雀(くじゃく)夫人といわれた人だよ」と教えてくれた。

 蔵に入ると、患者さん用に病院で使っていたという薬入れをもらった。丸くて牡丹(ぼたん)色の、あるいは赤かったかもしれないが、小さな紙箱だった。何か書いてある楽譜もくれた。ここに朔太郎がいたんだなあ、と思った。

 庭から縁側に上がり、高村光太郎がお葬式に持ってきたという香木を見せてもらった。「冬よ 僕に来い、僕に来い」の詩人が訪ねてきたんだなあと思った。詩を書いた人たちを身近に感じた。

 あの時、なぜ父と一緒に行ったのかは分からない。

 私の生まれた古本屋は前橋の路地奥にあった。店番をする父の頭の上に、詩を染め抜いた「朔太郎のれん」が掛かっていた。店からは見えない座敷の本棚には、父が集めた朔太郎の詩集が並んでいた。字を読めないときから「さくたろう」が家の中にあった。

 父は、のれんの詩と『おわあ、こんばんは』の猫の詩しか知らない子供でも、詩を好きな仲間として連れていってくれたのかもしれない。

 その後、生家はなくなり、跡地には詩人の伊藤信吉さんが書いた碑が立った。その伊藤さんが愛した前橋の風景も、どんどん消えている。生糸の町だったこと、それゆえハイカラな町だったことを伝えてくれる煉れんが瓦の建物がなくなっていく。今でもあるのは城跡に近い広瀬川上流の「石川橋」だ。

 県立図書館が移る前は川の端だったから、中高生のころは閲覧室で本を読み、岸辺を散歩した。なかでも石川橋から見る上流の榛名山と両側の家の木、そして下流へ向かう川の曲がり方と木の形が好きだった。今でもよく行く。遠方の友人が来たら、必ず連れていく。

 一人で石川橋にいたとき、飛んできた黒アゲハを見ていたら、小さな男の子に「なにしてるの? どこから来たの?」と話し掛けられたことがある。その子は、橋の近くにある行きつけの駄菓子屋に連れていってくれた。その店はいま駐車場だが、橋はある。まさか、この石川橋までなくなることはないだろう。

 古書の初版もそうだが、敬愛する昔の人たちと同じ物を、同じ景色を見る体験は、作品を読むきっかけにも手助けにもなるはずだ。跡地が石碑や案内板ばかりでは寂しすぎる。






(上毛新聞 2006年7月25日掲載)